治者がまず食を断って死すべし
私どもの同類であり同じ血を共有する、この人物の福音とくらべると、近年、我が国に氾濫している西洋の知とは、いったい何でありますか!
(『代表的日本人』内村鑑三著)
この人物とは、二宮尊徳です。
内村は彼と同胞である二宮を代表的日本の一人に数え、キリスト教徒でもなく、ましてや救い主でもない二宮の言葉を、
「福音」
と表現しています。
例えば、こんな言葉です。
きゅうりを植えればきゅうりと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである。
一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かしうる。
このような二宮の言葉を内村がなぜ「福音」とまで呼んだと言えば、それらが確かに聖書の言葉にも通じるという面もありますが、それ以上に「天地の理」に適っていると見做したからです。
このような天地の理は、二宮が頭で考えだしたものではありません。
彼自身が一つの信念をもって長年の間活動し、その結果として疑いもなく獲得した信念なのです。
天地の理は、誰か特定の一人だけを通して与えられるものではない。
キリスト教の教える神を知らないように見える日本人であっても、その人に「至誠」というものさえあれば、神はその人を通して啓示する。
それゆえに、その人の言葉は「福音」となるのです。
二宮がその当時見事に蘇生させた全国の荒廃地は数知れません。
しかし、彼が荒廃地を蘇生させようとするとき、その前に必ず蘇生させようと取り組んだのが、「人の心の荒廃」でした。
彼の信念によれば、人の心の荒廃をまず「仁」によって蘇生させずしては、土地蘇生の事業は絶対に成功しないのです。
「手だてに困ったときの飢饉の救済法」
という名高い講話をしたことがあります。
飢饉が起きて民が飢えに苦しむとすれば、それはひとえに治者の責任である。
飢饉に際して、よく救済策を講じることができればよし、もしできない場合には、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきである。
次いで、配下の大夫、郡奉行、代官も同じく食を断って死すべきである。
治者がまず食を断って餓死すれば、民の恐怖は収まり、郡奉行や代官までは死なずとも、良い結果が訪れるであろう。
かなり苛烈な救済法というべきです。
もちろん、文字通り「死すべし」という意味合いではないでしょう。
しかし、このような心持ちを二宮自身は持っていたのです。
かつて、彼の荒廃地救済の事業が難航したことがあります。
事業に取り組む従事者たちの心が不和をきたし、二宮の思い通りにいかないのです。
そのようなとき、彼の姿が忽然と消えました。
そして、7日たっても15日たっても帰ってこない。
困惑した代表者たちが手分けをして探し出してみると、二宮はあるお寺にこもって21日の断食を敢行していたのです。
従事者たちの不和は指導者である自分の責任であると二宮は受け取り、村人を導くのに必要な「誠意」を授かるように祈っていたのです。
このような二宮の生き方を見ると、「アダムのふつう以上の子孫」(参考:「徳があれば、制度はむしろ邪魔になる」)がいるところならどこであっても、彼がチャンネルとなって天が役事されるのだということが分かります。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
AIは「意味」を理解しない 2020/05/13
-
「他者の人生を生きるな」アドラー心理学で考える 2014/06/10
-
自分の記事に祝杯 2023/01/03
-
旧かなづかひは気持ちいい 2019/02/04
-
スポンサーサイト