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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

フェルマーからワイルズへ

2016/03/20
読書三昧 0
20160320 

500項近い分厚な、しかも私の専門外である数学に関する1冊
『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著)
を、非常に面白く読みました。

ピエール・ド・フェルマーは17世紀のフランス人数学者。
数学者とは言っても、純粋のプロ学者ではないその人が、その後300年以上にわたって世界中の数学者たちを悩ませ続けることになる難問を残したのです。


3 以上の自然数 n について、Xn + Yn = Zn となる 0 でない自然数 (X, Y, Z) の組は存在しない。


この問題を提議した後、
「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が足りないのでここに記すことはできない」
という思わせぶりなメモだけを残して世間を煙に巻いたために、その後の数学者たちの「証明本能」を刺激し続けることになったのです。

命題そのものは、数学を少し学んだ中学生でも理解できる内容です。
ところが、それをいざ証明しようとすると、あまりにも難しい。

本書はフェルマーの提議から360年後にアンドリュー・ワイルズがそれを証明するまでの物語ですが、そのいきさつがまさに「事実は小説より奇なり」。
実に面白いのです。

物語は360年だけで語ることができません。
フェルマーの定理そのものの根が、遥かギリシャの昔、かの偉大なピタゴラスの数学にまで遡るのです。
従って、この物語は2000年以上にわたって連関し発展してきた数学の物語であり、数の神秘に魅せられた者たちの生き様の物語でもあります。

その物語を分かり易く要約することは私にはとてもできませんが、面白みを感じた幾つかの点だけを記してみます。


数学は「絶対の証明」を求める学問です。
ところが、数というのは最も基本的な「整数」だけでも無限個あります。
その無限の範囲の中で「絶対」を証明するのは、有限な人間が無限を証明するという一種の曲芸とも言えます。

ある特定の命題が無限の数において正しいかどうか、無限に検証することはできません。
そこで、
「無限に進んでも『そうでありうる』」
という証明をしなければならないのです。

数学がそういう証明を実際に積み上げて今日まできたことを考えると、
「神様が人間を創造する時に『無限性』というものを克服できる能力賦与されたということかなあ」
という気がします。

もう一つ、本書を通して知ったことは、
数学は一つの巨大な構造物である
ということです。

フェルマーはそれまでのギリシャ時代から建造が始められた数学の土台の上に自分の数学を積み上げました。
フェルマー以後にも数学は発展し続け、その構造物は間断なく巨大化してきました。

ワイルズの時代には、フェルマーの時代にはなかった建造物がいくつも付け加えられていました。
それで最終的にワイルズが成功した証明方法は、フェルマーが取ったであろう方法とは違っているのです。
なぜなら、ワイルズはフェルマーの時代にはまだなかった数学の手法を用いて証明に成功したからです。

フェルマーが本当に証明に成功していたのかどうか。
それは今でも闇の中です。


3世紀以上に及ぶ壮大な証明物語の円環の中に、2人の日本人が登場してきます。

谷山=志村予想

これがワイルズの成功の鍵となったのです。

数学は大きな池に浮かぶ島々に譬えられるといいます。
いろいろな分野の数学は、従来それぞれが個別の島として、他の島と分離されています。
それで、この島で通じる数学言語は別の島では通じないということが普通なのです。

ところが、谷山=志村予想は、独立的に浮かんでいた島と島を結びつけるという可能性を提示しました。
これは数学全体に画期的なアイデアをもたらしたのです。

最終的には、ワイルズはこの谷山=志村予想を証明することを通してフェルマーの定理を証明したのです。

このように、数学全体は多くの島々が結びついた構造物になっているので、どこか1箇所にでも不具合があれば、構造物全体が崩壊する可能性があります。
それゆえに、個々の箇所が絶対でなければならないのです。

絶対と無限 ....

人間の能力の神秘と偉大を考えさせられる力作です。



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