弁解の後孫
同僚や師弟、あるいは家庭において「私」と関係を結んだ人たちの中で、弁解する人を好む人がいるか、見てみてください。皆さんは、自分に何か起これば、「あの人もそうだ」と言いながら、他の人を引っ張り込もうとします。「誰々もそうだったのに、弟や妹もそうだったのに、なぜ私だけ叱るのか」と言うのです。.... これが堕落性です。
(『天聖経』8-3-14)
生涯の何年間にわたって身につけられた習慣性をなくすためには、死ぬほど努力しても足りないというのです。言い換えれば、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るというのは、数世紀の人生路程をもってしてもできないというのが理論的です。
人の力では抜き取ることでのできない根を、そこに下ろしています。世界万民を抱えるかのような、巨大な木のようになっているのです。
(『天聖経』8-3-20)
本日の講義で引用した2つのみ言葉です。
「弁解は堕落性だ」
と言っておられます。
不思議なことに、聖書を見ると、人間にはその堕落の直後からこの堕落性が発現していることに気づきます。
善悪の実を取って食べた直後、神様がアダムに、
「お前は止めておいたあの実をなぜ取って食べたのか?」
と聞かれたとき、彼は、
「私と一緒にしてくださったあの女のせいで、私は食べました」
と答えたのです。
これは本当に典型的な弁解です。
そして、アダムから責任を転嫁されたエバもまた、このように答えました。
「ヘビが私を騙して、私は食べました」
このように、2人の人間がいずれも弁解した後、唯一弁解しなかったのがヘビです。
弁解しなかったがゆえに、彼は最も重い責任を背負わされたように見えながら、その後の人類歴史において「主人」の位置を占めるようになりました。
アダムは取って食べるにおいては最後の立場であるのに、神様はなぜ最初に聞かれたのでしょうか。
彼に全責任を取ってほしかったからでしょう。
「私が食べました。すべて私の責任です」
これが、神様がアダムに期待した答だったのではないでしょうか。
この答えが「本性」の答えです。
本性は弁解しないということです。
しかし実際にはアダムが堕落性の立場から弁解をしてしまったために、神様は非常に困って、エバに訊ねるしかありません。
エバには本性の答えを期待しましたが、彼女も堕落性の答えをしたのです。
これで、人間の責任が消えました。
ヘビには神様が聞くまでもありません。
彼には本性の答えをするか堕落性の答えをするかの責任はないのです。
このようにして、我々は「弁解の後孫」になったのです。
今の我々にとっても、弁解のない生き方は極めて困難です。
どんな小さなことでも責任を追及されそうな気配を感じた途端、我々は「弁解」の言葉を即座に探し始めます。
しかも希望がないことに、このような堕落性を克服することはほとんど不可能に近いと、お父様は言っておられます。
堕落性は今や、人類全体を抱え込むほどの巨大な木に育っているのです。
我々はその巨大な木の、先のほうの小さな枝に過ぎません。
その枝がいくら頑張ったところで、巨大な木を変えることは至難です。
ならば、我々はどうしたらいいのか。
「これは無理だ」
と諦観して、座して死を待っていいのか。
講義はもう少し続きます。
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