すべては感謝して消化しなさい
本日、礼拝の後で青年を相手に原理講義をしました。
最近の講義では大抵最初に紹介するのが、お母様の言われた「2つの偉大なみ言葉」。
「愛しています」
「感謝します」
「この2つのみ言葉が本当に分かれば、原理の全体が分かる」
と言われるのです。
ところで、この2つとも、主語も目的語もありません。
主語は、まあ、「私」でいいとしても、目的語はどうなるべきでしょうか。
青年に聞くと、
「それはやっぱり、『すべての .... 』」
という答え。
当然、それ以外にない。
「全ての人(もの)を愛しています」
「全ての人(もの)に感謝します」
となるべきでしょう。
まず「感謝」から考えてみると、なぜ偉大なみ言葉は「全ての人(もの)」を伴う必然性があるのでしょうか。
イエス様によれば、
「スズメが落ちるのも、神様の許しなしには落ちない。また、あなたの髪の毛の数さえご存知である」(マタイ10:29-30)
というのが神様です。
ここから考えれば、神様は私たちの細部に至るまで関心を持ち、ご存知であられる。
また、私が遭遇するどんな些細な出来事でも、神様と無関係に起こるものはない。
そういうことになります。
神様がそこまで深く細やかに私たち一人一人に関わられる理由を考えれば、それは一つしかありません。
私たちの真の父母であられるからでしょう。
それゆえ、私たちにもたらされる出来事のすべては、神様の父母としての善なる動機に由来しているはずです。
それが分かれば、私たちには「感謝」しかないということになります。
「何らかの試練に出会ったら神様に祈祷して聞いてみるべきだ」
とよく言われます。
しかし、本来なら聞いてみるまでもない。
神様の答えは聞かずとも分かっているでしょう。
「すべては感謝して消化しなさい」
という答えしかないと思われます。
理屈はそうなのですが、もちろんそんなに簡単なことではないのが現実です。
「感謝します」
というみ言葉は偉大であるだけに、簡単ではありません。
「この2つのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている」(マタイ22:40)
というイエス様のみ言葉を想起させます。
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