主の許しなしには、すずめも落ちない
先日、2週間ぶりに隣の教会へ講義に行くと、玄関にあった大きな水槽が姿を消していました。
色とりどりの熱帯魚が泳ぐ様子を眺めるのが楽しみだったので、一体どうしたのかと訝り、事情を聞くと、前の晩に突然ガラスが割れて水浸しになったのだそうです。
幅90センチの大きな水槽です。
その水が流れたのなら、どれだけ悲惨な光景になったか。
駆けつけた何人かが水を掃き出し、生き残った熱帯魚を2つの家庭が分担して避難させたお陰で、死なせずにすんだと聞いて、ひと安心しました。
間もなく始めた講義の冒頭で、この水槽事故の話をしてみました。
「どうして昨夜、急にあの水槽が割れたと思いますか?」
そう質問すると、ある方は即座に、
「水槽が古くなったんじゃないですか」
まあ、そうですね。
水槽が古くなって、ガラスが弱くなっていたのか。
あるいは、水槽を乗せている台がぐらついて、重みが一方にかかって割れたのか。
そんな理由をあれこれ考えたところで、本当のことは分からないでしょう。
私にも分かりません。
考えてもしようがないことのようにも思えます。
それなのに、なぜこのことに拘るのでしょうか。
これまでの講義でも度々取り上げた聖句があります。
2羽のすずめは1アサリオンで売られている。しかもあなた方の父の許しがなければ、その1羽も地に落ちることはない。
(マタイ福音書10:29)
これが本当であるなら、昨夜水槽が突然割れたことも、主の許しがなければ起こらなかったと考えられるのです。
空を飛んでいたすずめが突然落ちる。
さっきまで何の変哲もなかった水槽が突然割れる。
朝の通勤にたまたまいつもと違う道を走ったら、猫が飛び出してきてぶつかる。
日常生活の中には、こんな理由もはっきりわからない出来事が次々に起こってきます。
そういう出来事を
「偶然だ」
と言ってやり過ごすこともできるし、実際、その多くをそのようにやり過ごしているのが普通でしょう。
しかし、
「主はどんな理由と意図があって、私の目の前で水槽が割れることをお許しになったのだろう?」
と考えてみることは、全く無意味だとは思えないのです。
『ハワイの秘法』(ジョー・ヴィターリ)の中に、
「『外にあるもの』などありえない」
という一節があります。
どんな出来事も、本当は自分の外で起こっているのではなく、自分の中で起こっているというのです。
目の前ですずめが落ちるのも、外の出来事ではなく、私の内で起こっていると考えるのです。
そうすると、
「私の内にどんな問題があって、すずめが落ちるところを主は私に見せてくださったのだろう?」
と考えるということになります。
そう考える目的は、必ずしも本当の理由を見つけ出すことではありません。
多分、大抵の場合、本当の理由など見つけることはできないでしょう。
しかし少なくとも、問題の原因を外に求め、従ってその問題の責任も外に求めようとしがちな我々の性向に歯止めをかけるいくばくかの力にはあると思うのです。
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