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使徒パウロの彷徨

kitasendo
パウロの彷徨

「パウロは地上で暮らすとき、復活の主だけを証し、伝道と証しをしたのであって、誤って生きていけば、このように惨めな所に来るという事実を教えられなかった」

「パウロは地上でエホバを崇めるときも、主を証すために開拓地を夢中で回るときも、エホバの神は私の父母であり、私は神様の子女であることを全く考えてみたことがないからである。地上人はこれを考えて生きなければならない」
(『霊界から来た使徒パウロの書信』聖パウロ)

この書信を読むと、パウロといふ人は率直で正直な人です。

彼は地上でイエス様の死後に使徒となり、以後は誰よりも深く主イエスを愛し、熱心に命がけで伝道し、最後は迫害の中で殉教していきました。霊界に行けば、当然すぐに主が迎へてくださり、苦労を労つてくださるだらうと思つたのに、いつまでたつてもイエス様は現れてこられない。

パウロは限りなく落胆し、孤独で寂しい境遇に落ち込みます。

なぜ、私が愛した主は、一度も私の前に現れてくださらないのか?

パウロは、切実に主を呼びます。なぜそれほどにも薄情で冷淡なのかと、呪つたりもします。

霊界でパウロを導くのは、主イエスではなく、神様(エホバ)でした。ある時は、エホバの家で豪華絢爛の生活をさせたかと思ふと、ある時は、地獄へ送つて、
地獄人の友となつて、彼らを解放しなさい
と指示されます。

彼は混乱し、絶叫しながら地獄で伝道を続けます。そして、次第に悟つていくのです。それが、冒頭の告白です。

地上での伝道の日々、彼にとつては復活のイエス様があまりにも大きな存在であり、その方の恩恵を証すことに最高の意義を感じてゐました。ところが、そこに大きな問題があつたのです。

パウロにとつてはイエス様があまりにも大きすぎて、その背後におられる神様がはつきり見えなかつた。イエス様は神様の愛の現れであるのに、愛の本体たる神様を正しく見てゐなかつたのです。

この「ズレ」が、霊界での最初の苦痛になつたのです。

これは私の想像ですが、イエス様を神ご自身のやうに思つてきた人の前に、イエス様は現れることができなかつたのではないか。イエス様からすれば、神様よりも自分のほうが大きく見られることが、神様に申し訳ない気持ちになる。それを悟るまで、パウロの彷徨は続くのです。

この世の時間で計れば2000年近い間さ迷ひ、その末に統一原理を通して文先生に出会ふことで、その霊的な彷徨に終止符を打ちます。その波乱に満ちた道のりは、雄大な一大叙事詩を読むやうです。

それにしても、パウロが神様の愛を求める切実さ、伝道に対する情熱は本当に凄まじいものです。地獄人たちを徐々に感化して行く姿は、神様も感動せざるを得ないもので、
お前は私の子女だ
と言はれ、暖かい光で彼を包まれるのです。

パウロを導く要所要所で、神様は、
エホバがお前の父母であり、神であることを深く研究しなさい
と命じられます。

パウロにとつて、神様の導きは薄情で冷淡に思へることも多い。その一方で、地獄の人間たちの苦しむ姿をパウロに見せながら、雨のしずくのやうな音を立てて涙をこぼされる方でもあります。

彼の証言を教訓として受け取るなら、我々は何に留意すべきでせうか。

偉大な人の教へは耳で聞くことができる。恩恵は体感することができる。しかしその本体である無形な神様は、つねにその背後におられて掴みかねるのです。

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ドラミちゃん

最近、神頼みがありずぎて、所かまわず、つい「あ~神様~」と口ずさんでしまいます。神様を知ったからには、神様を喜ばせて、解放してさしあげなければならないのに、神様に心配ばかりかけているようです。
でも、何故だか、なんとなく幸せ気分でいられるのは、神様と真のご父母を知った喜びがあるからでしょう。
これを、早くみんなに伝えたいのに・・・

2010年04月07日 (Wed) 20:27
kitasendo
Admin:kitasendo