過去の記憶に生きない人
120年もかけて建造した箱舟を条件として大洪水を敢行された後、神様はノアの家族が堕落前のエデンの園に戻ってくれることを願われました。
ある日、ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていた場面において、神様は何を願っておられたか。
アダムとエバが堕落する前、天真爛漫に裸体を現していたその時の喜びを取り戻したいと思っておられたのです。
ところが、結果はご存知の通り。
息子たちの行動によって、神様の摂理は峠を越えきれず、またも挫折してしまいました。
この失敗に対して、文先生は次のように評されたことがあります。
「ノアの家族は洪水後、感謝の生活にならなければならなかった。しかし、習慣的な生活をしてしまった」
洪水後、神様は箱舟の周りを飛び回るカラスでサタンの存在を教えてくださっていました。
しかし、より具体的には、サタンは「習慣的な生活」の中にいた。
そう言ってもいいでしょう。
サタンはなぜ、習慣的な生活の中に潜むのでしょうか。
その生活の中には、過去からの記憶が蓄積されているからです。
「あの人は昔からこうだった。だから、これからもそのようだろう」
私たちは過去の記憶に基づいて、自分をも他人をも、大体このように判断します。
過去の体験の記憶というフィルターを通して対象を見て、判断するのです。
その対象の真の姿を見ているかどうか判りません。
大抵の場合、フィルターは真の姿を歪め、曇らせて見せるでしょう。
なぜなら、そのフィルターは多分に私の堕落性によって形成されているからです。
記憶というフィルターは、相手の本性(神性)を見せないようにする。
それで、過去の記憶はまさにサタンの温床だと言えます。
文先生が、
「感謝の生活にならなければならなかった」
と言われる意味は、
「過去の記憶で、習慣的に人を見てはいけない」
ということでしょう。
習慣的に暮らせば、感謝がないのです。
反対に、過去の記憶から解放されれば、感謝が湧くのです。
教会でも、数年おきに牧会者(教会長)が人事で替わります。
離任する牧会者とは数年間ともに活動した記憶がありますから、見送る教会員たちには悲喜こもごもの複雑な思いが湧く。
そして、新しく着任する牧会者は大きな期待と幾ばくかの不安を抱いて迎えます。
その人との記憶はまだ何もないので、
「より良い方が来てくれたらいいなあ」
という期待を抱くのです。
しかし、新任牧会者が着任して、その方との交わりが始まるやいなや、
「この方の第一印象はああだったが、実はこんな人らしい」
というような記憶が徐々に形成されていきます。
すると、そのように自分が作ったフィルターでその牧会者を見るようになる。
そして、そのフィルターが自分自身を縛るものにもなるのです。
神様は1600年間の堕落の歴史で体験した記憶をすっかり忘れ去って、堕落前のエデンの園に回帰したいと願われたのに、ノアの家族は過去の記憶を引きずったままでした。
そこに大きなズレが生じました。
我々も失敗しないためには、洪水後のノアの家族の立場で、過去の記憶に生きない人になる必要があります。
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