原理は難しくない
久しぶりのゲストに堕落論の講義をしました。
両脇には霊の親(紹介者)と担当者が座り、3人が一緒に受講。
ゲストの時間があまりなかったので、講義が終わるや、そそくさと身支度をして帰って行かれました。
書いてくれた感想文は、わずか2行。
担当者がそれを持ってきて、私に見せてくれながら、
「時間もないけど、なかなか心の内を話してくれないんですよ。ここで勉強しながら、どうなりたいのか、原理を自分の問題として捉えていないような気がします」
と言うのです。
「かと言って、原理をこういうふうに受け止めなさいと強制するわけにもいきませんしね」
と答えた後、しばらく対応の話し合いをしました。
「ゲストは原理を自分の問題として捉えていないと言われましたが、あなたは担当者として彼女に原理をどう捉えてほしいと思っているんですか」
と問うと、
「それは彼女に祝福を受けてほしい。でも彼女は、そのことに一切触れようとしないんです」
「原理の観点から言えば、それは当然の願いでしょうね。でも、今の彼女にはその願望がない。そこへ至るには、相当なステップを経る必要がありそうですね」
「そう思います。でも彼女の気持ちがよく分からないから、どこをどう解きほぐしてあげたらいいのか、分からないんです」
そんな話をする中で担当者が、
「私は今でも原理がよく分からない。理解がぼんやりしているので、ゲストにどんなポイントを押さえたらいいのか、そういうのが苦手なんです」
と言うので、私もちょっと考えました。
「私は原理がよく分からない」
と、我々はよく思います。
なぜそう思うかというと、
「原理は難しい」
と考えているからです。
実際、原理は難しいのでしょうか。
まあ、簡単とは言えない。
原理講論も平易ではないし、文先生の説教もその大部分は深くて難解です。
ある意味では、最先端の物理学より難しいかも知れません。
それで大抵の会員は、
「自分で講義するなんてできない」
と思いますし、講義を聞いても理解できないと感じたりします。
しかし、
「原理は難しくない」
という方が一人います。
韓鶴子総裁、真のお母様です。
「原理は2つのみ言葉に集約されます。『愛しています』『感謝します』この2つのみ言葉さえ分かれば、原理全体が分かります」
この言葉を聞いて以来、私はこの2つのみ言葉について考え続けるようになりました。
「この、一見平凡な、誰でも言いそうなこの2つの言葉のどこに、原理全体が収納されるのか」
お母様はまた、こうも言われました。
「私はお父様(文先生)と結婚した時から、教わらなくても原理が分かっていました」
この言葉は、自慢のようにも、傲慢のようにも聞こえますが、もし原理全体が本当にあの2つのみ言葉に集約されるのだとしたら、まんざら嘘ではないと思われます。
原理を学び始めた人を見て、
「あの人はなかなか原理が(頭に)入らない」
などと考えることがありますが、実は、長年学んできたはずの我々自身も原理が入っていない。
これでは、盲が盲の手を引くようなものです。
お母様が言われたあの2つのみ言葉の本当の深さ、広さ。
1日も早く、それを突き止めてみたい。
そう念願しているところです。
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