私は甘利問題を予め知っていた
「私は甘利大臣の『政治と金』の問題を予め知っていました」
と言えば、驚かれるかも知れません。
「どこにそんな特別情報網があるのか?」
と訝られるでしょう。
しかし、それを知っていたのは独り私だけではありません。
多分、ほぼすべての人が知っていたのです。
その根拠を以下に示します。
地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ姿である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向を、のぞき見ることができるといわなければならない。....
それ自身の内部で闘争を行っている各個体が、横的に連結して生活を営んでいるのが社会なので、そこでもまた、闘争が起こらざるを得ないようになっているのである。
(「原理講論」復帰摂理から見た歴史発展)
これを見ると、社会で起こっている問題は、既に私の中で起こっているのです。
だから、自分自身の中を見れば、世の中で何が起こるかが分かります。
つまり、誰もが甘利問題を「個別的」に「知っていた」という意味ではなく、「自分の内面で常に何が起こっているか」を潜在意識的に「知っていた」という意味です。
ところが、甘利大臣の事件を聞いた時、ほとんどの人が、あたかもそれを初めて知ったかのように驚いたのです。
街頭でマイクを向けられた人は一様に驚いた表情を浮かべて、
「本当ですか?!」
と聞き返す姿がテレビに映し出されていました。
これは一見当たり前の光景です。
不思議なことなど、どこにもなさそうです。
しかし本当に不思議なことは、私たちがこの事件を知らなかったと思い込むことであり、そう思い込むことによって、
「この事件は甘利大臣の問題であり、私の問題ではない」
と思い込むことです。
「大臣は熱心に公務に励んでいるように見えたのに、どうしてあんな人が ... 」
「大臣は嵌められたんだ」
「大臣は辞めても、安倍政権の支持率は下がらない」
「今の法律にも問題があるんだ」
人それぞれに様々な観点で論じるのですが、見る限り、
「これは私の問題だ」
と論じる人を寡聞にして知らないのです。
もちろん、私も「知っていた」と自慢できる者ではありません。
「知っていたはずだということに、後になって気がついた」
というのが、正確な話です。
本当に
「知っていた」
と言えば、知っていた者としての責任が生じるので、誰でも多分
「知っていなかった」
ことにしたいのです。
しかし原理講論は、
「君たちはみんな知っている。知っているなら責任を負いなさい」
と言っているのでしょう。
どう責任を取ればいいのでしょうか?
どんな責任を持てますか?
私の内部で止むことなく続いている「闘争」に終止符を打つこと。
ここに責任を負わなければならないでしょう。
甘利大臣のことは、一つの例に過ぎません。
私たちはどうしても、私の外に問題の原因を探そうとする性(堕落性)があります。
多分、そのほうがよほど容易いのでしょう。
「問題の原因は、常にあなたの内にある」
というのが、原理講論の核心であるはずなのですが。
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