原理を盾にとった第三者
もう少し、昨日の記事から続きます。
罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることを言う。
(「原理講論」堕落論第4節)
これは原理講論に出てくる罪の定義です。
非常に簡潔明瞭で端的な定義だという印象を受けます。
しかし、じっくり読んでみると、法廷論的だなという感じもしてきます。
罪をこのように定義すると、今度はその罪を清算するのも当然、法廷論的になるでしょう。
この世の法概念に沿って罪とその清算方法を、私自身このように説明することがありました。
法定速度50キロの道路を75キロで走れば、スピード違反で捕まりチケットを切られる。
25キロもオーバーすれば、許容される限度を越えるので、そこで罪が発生する。
ところがチケットを切られ、罰金1万5千円を支払えば、その罪は帳消しにされ、そのまま運転を続けることが許される。
スピード違反のような比較的軽微な罪であれば、罰金という形で清算することができるが、殺人のような重い罪の場合、そうはいかない。
裁判にかけられて必ず刑務所に服役することになる。
しかしそれでも、判決通りの刑期を終えればそれで罪を清算したと見做されて、釈放される。
釈放された人に罪が残っているかといえば、法律的には罪はない。
だからこそ、釈放されたのです。
天法についても、基本的には同じ原理です。
天法に背いて一定の限度を越えれば、それが罪と定められる。
その罪を清算するには、償いの量の多寡はあるにせよ、それを支払えばよいことになる。
そのように説明すれば、大抵、異を唱える受講者はいません。
合理的で論理的な説明に思えるのです。
しかし、罪にはそれだけでは説明しきれない何かがあります。
法律とは社会全体の公益を守り、秩序を維持するための原理だと言えるでしょう。
それを守る限りは、法律がその人を守るというのが、法治国家の基本です。
ここで、法律では扱いきれない罪の要素とは何でしょうか。
例えば、殺人罪の場合、刑期を全うすることで法律的な罪過はなくなったとしても、被害者の怨念と遺族の無念とは消えると思えません。
それは、法律ではフォローしてくれない「心の痛み」なのです。
ある一つの罪を巡って、神様、被害者、サタンには三者三様の見つめ方があります。
被害者には「心の痛み」や「恨み」「憎しみ」などがあり得ます。
神様には、子どもたち同士の争いを見なければならない父母としての「心の痛み」や「悲しみ」があるでしょう。
しかしサタンには「原理」があるのです。
サタンとは「原理」を盾にした第三者です。
私たちも、その罪に直接関与していない場合、大抵この第三者の立場に立ちます。
「犯した罪に対しては、必ずそれに見合った対価を払わない限り、許されることはない」
これが、罪に対する原理的な見方です。
今の世の中が基本的にこのような原理によって維持されているのを見れば、確かに、
「この世はサタンの世界だ」
というのも間違ってはいないように思えます。
しかし、神様が罪を見るとき、一体どのような対価を願われるでしょうか。
もし対価を必要とされるというなら、それは父母としての「心の痛み」が消える対価を願われるのではないでしょうか。
そうだとすれば、罪を犯した者を審判し、刑務所にぶち込んだとしても、神様にとっての罪は清算されるとは思えません。
私たちがそういう神様の心の中を容易に察し得ないのは、パリサイ人らがイエス様の心中を察し得なかったのと、全く軌を一にしています。
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