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まるくまーる(旧・元教育部長の講義日記)

サタンは何によって神様に対抗するか

2016/01/28
信仰講座 0
20160127 

昨日の記事の続きです。

ヨハネ福音書の8章に、罪の女に対するイエス様の態度が記された有名な逸話があります。


今まさに罪の現場を押さえられた女をパリサイ人らが引っ張ってきて、イエス様に問います。

「律法によれば、姦淫の女は石で打ち殺す決まりですが、どう思いますか?」

それに対してイエス様が、
「お前たちの中で罪のない者が、この女に石を投げつけるがいい」
とお答えになると、誰も敢えてそうする者はなく、一人また一人と去って行った。

すると、一人残った女にイエス様はこう言われたのです。
「誰もあなたを罰する者はいなかったようだ。私もあなたを罰しない。今後はもう罪を犯さないように」


パリサイ人らは、律法に依拠する者であって、おそらく、罪の女に対する私怨はないでしょう。

「律法というものがある限り、それを犯した者はその律法の定めによって罪を償わねばならない」
と考えているのです。

律法に依拠する限り、それに沿う者が正義であり、石で人を打ち殺すという行為さえも、律法によってその正当性が保証されると考えます。

それに対して、イエス様の立場はどうだったのか。

何とかして、その女を許す手立てはないかと案じる愛の心があったろうと思います。
これは神様の愛の心に通じる、非常に基準の高い心です。

しかしもし、パリサイ人らが律法の通りに刑を執行したとすれば、それを止めることはできなかったでしょう。
なぜなら、律法そのものを否定することはイエス様にも難しいことだと思われるからです。
パリサイ人らが引き下がったからこそ、イエス様はその女を許すことができたとも考えられます。


この逸話を先の
「天が悪霊を遣わして地上人に苦痛を与える」
という復活論の原理と照らし合わせてみるとどうなるでしょうか。

神様にはどんな地上人をも許したい父母としての心がある。
悪霊には、もしかして地上人に対する私怨があるかも知れない。
ところがここにもう一人、パリサイ人に当たる存在がいるように思われます。
それがサタンです。

サタンの思考と行動の方式についての文先生のお話を聞くと、サタンは原理をきわめて熟知しており、その原理に基づいて神様を讒訴してきたことが分かります。

「神様、あなたが全知全能で原理原則の神様であれば、その原理をあなた自らが破ることはできない。私は原理を外れた者だが、あなたは外れることができないでしょう」
と主張すると言われるのです。

そして、そう主張されると、神様は身動きができない。
なぜなら、原理の神様であることも確かだからです。
原理でなら、神様に対抗できるとサタンは考えています。

サタンが神様と対決するのに必ず原理を持ち出してくるのには、理由があると思います。

彼は神の被造世界を原理によって理解しているのです。
神様は天使長に原理をよく教え、彼が原理通りに行動し、実績を作ってくれば、とても愛してやったのです。
だから、彼にとっては原理が何よりも貴く感じられるのです。

原理を最高に貴く感じている者に対しては、神様も原理で対される。
相対基準ですから、そうするしかないでしょう。

だからサタンが原理に基づいて、
「原理を犯した者は、原理によって罰を受け、蕩減条件を立てなければ、元に戻ることはできないでしょう」
と主張すれば、その主張自体を否定することはできません。

このように考えてみると、
「天が悪霊を遣わして地上人に苦痛を与える」
という原理講論の表現は、少し補足が必要かも知れません。

神様が直接に悪霊を遣わすのではなく、原理を主張するサタンが仲介しています。

神様には罪を許せる父母の愛がある。
サタンは原理に基いて対価を要求する。
悪霊は私怨を晴らそうとやり返す。

現実世界には私怨と原理が先ず現れるので、それが整理されないと神様の父母の愛が現れることができない。

この点をもう少し考えようとすると、
「罪とは何か」
ということを深く探ってみる必要がありそうです。

神様が考える罪と、サタンが考える罪は、何かが本質的に違うのではないか。
原理講論の堕落論で出てくる罪の定義は、どちらかというとサタンが考える罪観に近いような気もします。


罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることを言う。


もう少し、考え進めて見る必要がありそうです。


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