愛は共有する
したがって、皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。
(「天聖経」文鮮明先生 1986.11.1)
「愛の哲学」とはどんな哲学を言っておられるのだろう?
それについてあれこれ考えていると、『祝福家庭』79号にこんな記事を見つけました。
子どもの心をつかむためには、その子の心の中を尋ね、欲求を把握し、「母の心」で愛する人になることです。
(「子女教育奮闘記」)
記事の著者は光の子園の副園長さん。
記事の中で、A子さんの4年間を紹介しているのです。
2歳時の時、A子さんは保育士に、
「絆創膏を貼って」
と頼みます。
2、3回なら普通ですが、毎日続いたのです。
保育士は、
「どこが痛いの?」
と聞きながら、A子さんが満足するまで貼り続けたといいます。
またある時には、
「この部屋に狼がいる」
と言って泣き出す。
それらしいものは何も見えないが、よくよく探すと、小さなチョーク入れの箱に狼の絵がついていました。
それを他の部屋に移すと、狼のことを二度と言わなくなりました。
その他にも、さまざまなことがあって、父母も、
「うちの子はどうしてこんなに気難しいのだろう」
と悩んでいたのです。
しかし4年間の保育所生活を卒業していく頃には、いろいろな問題が一つづつ解決していった。
それを振り返って副園長さんが得た結論が、
「子どもの心をつかむということは、母の心で理解することだった」
というものだったのです。
文先生のみ言葉が紹介されています。
子どもの心をつかむためには、その子の心の中を尋ねていき、何を欲しているのかを把握し、理解して認めることです。子どもが泣いたら一緒に泣き、子どもが笑ったら一緒に笑い、子どもが怒ったら、私もその怒りを共有するのです。これが「愛する」という行動です。
なるほどな、と思います。
私はよく分析するのです。
子どもが泣いたら、
「なぜ泣いているのだろう? 何が原因だろう? 本人の問題なのか、それとも私に原因があるのだろうか?」
と考えるのです。
しかし、愛は分析をしない。
分析をしないで、共有する。
それが「愛」であるというのです。
「愛の哲学」というのは難しいことではないようですが、意外とできていないことに気づきます。
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