人はなぜ願わざる悪を行うか
人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。しかし、すべての人間は自分も知らずにある悪の力に駆られ、本心が願うところの善を捨てて、願わざる悪を行うようになるのである。
(原理講論「堕落論」序論)
本心では善を願っているのに、なぜ我知らず悪を行ってしまうのか。
堕落論では、ここに目に見えない悪の勢力の主体「サタン」が存在するからだ、と論を進めます。
しかし視点を変えると、同じ原理講論の総序にはこんな記述もあります。
自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、決してその隣人を害することができないようになる ....
人はなぜ願わざる悪を行うか。
不等号で考えると、
不義の満足感 > 良心の呵責
となるとき、人は隣人を害する不義をしてしまうのです。
問題は、良心の力が弱いというところにあります。
良心の力はなぜ不義の満足感を凌駕できないのか。
総序の続きを読むと、こういうヒントがあります。
時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神ご自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。
私を見つめる神様の視線を感じることができず、その心情も分からない。
神様から断絶されてあてどなく彷徨うような人間の中では、良心は本来の力を発揮できない。
それで、不義の満足感に敗北してしまうのです。
ところで、「願わざる悪」とはどんなものでしょうか。
サタンの教唆を受けて為してしまう悪と考えれば、
殺人、盗み、裏切り、詐欺、横領 .....
などが思い浮かびます。
しかし「願わざる悪」とは、そういう大きく、決定的なものばかりではないでしょう。
妬み、恨み、血気、傲慢、批判、責任転嫁、嘘 .....
こういう、心の中で絶え間なく当たり前のように生まれては不義な満足感の中に私の人生を絡めとってしまう「思い」の数々も、実は「願わざる悪」だと言えます。
往々にして「悪」の顔をしないで現れ、私の立場を正当化してくれる。
「願わざる悪」
というより
「思わざる悪」
という感じで、かなりの曲者です。
これらを抜かりなく見抜き、正しく制裁する力を良心は持たねばならないのですが、そのために良心をうまく養育する必要があります。
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