愛は根本復帰である
ある時、講義の準備をしているところに一人の婦人が入ってきたので、
「いつも頑張っていますね。今日もこれから伝道に出かけるんですか?」
と声をかけたことがあります。
「ええ、伝道は好きなんです。でも、夫がなかなか理解してくれず、祝福を受けられないのが悩みです」
とその婦人。
「ご主人は教会が嫌いですか?」
と尋ねると、
「関心がないみたいです」
と答えた後、こんなふうに言ってため息をつくのです。
「まあでも、祝福を受けたとしても、その後また教会に来られなくなるご主人もおられるから、そんなふうになっても駄目だし .... 」
この最後の一言を聞いて、私は何か言いたい気がしたのですが、思いも言葉もすぐにまとまらなかったので、
「そうですねえ .... 」
と言ったなり、その場の会話は終わってしまいました。
「あのとき、一体何を私は言いたかったんだろう?」
と、後になっても時々考えてみるうち、少し分かってきたような気がします。
原理を学んだら、誰しも祝福は受けたい。
しかし、条件を立て、教会の活動を熱心にし、祝福を受けたとしても、愛を復帰するということは容易でない。
愛というものは、条件や活動だけでは復帰できない。
どうしたらいいのでしょう。
文先生は、
「愛は根本復帰である」
と言われました。
ここには真の父母としての深い意味もあると思いますが、我々の次元でも通じるような気がします。
教会に関心があって、原理も勉強してくれる。
祝福も受けてくれる。
愛というのは、そういうこととちょっと違う次元にあるのではないか。
だから、最初の婦人に対しても、
「そんなことで溜息をつく必要はないよ。愛はもっと別のところにあるかもしれない。み言葉を聞かせる前に愛を探したらどうでしょう」
と言いたかったのかもしれません。
もっともこれは、自分に言う言葉でもあることに気がつきました。
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