介護はやっぱり大変だ
「私は介護ができてとても嬉しい」
という記事を書いたところ、普段よりも多めのコメントをいただきました。
「介護もしたことがない人が『嬉しい』などと書くとは無神経すぎる」
と諭してくださった方もいます。
私も簡単に「嬉しい」と思えると思っているわけではないものの、実際の会話を端折って書くと確かに「偉そう」に見えるなと教えられました。
その後で届いた別のコメント。
「教育部長さんは介護経験があるんじゃないですか。親ではないけど、奥さんを看取るまで何年間も世話されたんじゃないですか」
と指摘していただき、我が事なのに、
「そう言えばそうだな」
と思った次第です。
妻の介護を意識しなかったのは、おそらく、肉体を酷使するような介護はあまりなかったからだろうと思います。
妻は最期を迎えるぎりぎりまで自分で動いてくれていたのです。
しかし、そういう介護はなかったものの、
「幾つもの治療方法を探して一生懸命に取り組んでいたなあ」
と、妻との最後の3年間を久しぶりに思い出す機会になりました。
その他のコメントでは、
「あの婦人の4人のお子さんは、どうして全然手伝ってあげないのだろう?」
という疑問を呈したものもありました。
このことについては、実際、茶話会の場でいろいろ現実的な意見も出たのです。
そのとき、婦人の話を聞きながら、私として一つ感じたことがあります。
その方は自分でも言うように、人に頼むことが苦手なのです。
人に頼めば、その人と仕事をどう分担するか、どう協力するか、その段取りを考える必要があります。
そこが苦手なので、ついつい自分でできることは精一杯まで自分で抱えてしまうのです。
ある方が、
「一人で抱えるのは大変なんだから、これとこれをやってくれない? って周りの人に頼んだらいいのよ」
とアドバイスするのですが、
「そうは思うけど、なぜか言えないのよね」
と答えるばかり。
本人もはっきりとは自覚していないのですが、
「私が自分でやるから、誰も手伝わなくていいよ」
という無言のメッセージを周辺に発しているのではないかという気がするのです。
表層意識では
「手伝ってもらったら助かる」
と思っているのに、深層意識では、
「手伝ってもらわないほうがいい」
と思っている。
だから、周囲の人たちも何だか手伝いにくさを感じる。
現実的な対応も工夫しながら、この潜在意識を変える工夫も必要ではないか。
そんなふうに感じました。
現実的対応に関して私はあまり有能ではありませんが、内面的対応に関してはある程度力になれるのではないか。
そんな気がして書いたのが、あの記事(「私は介護ができてとても嬉しい」)だったのです。
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