愛のイエス路程
先日の記事「愛らしい愛」で、
「原理講論とともに愛講論が必要かもしれない」
と書きました。
聞くところによると、原理講論の執筆者である劉孝元先生が霊界から、
「原理講論は『真理の書』であると思ってきたが、こちら(霊界)に来てから学んでみると『愛の書』であることが分かった」
と伝えてこられたとのことです。
してみると、改めて「愛講論」が書かれなくても、今ある原理講論の中に愛を見出していければいいということです。
しかしこれが簡単なことでしょうか。
今日もイエス路程の講義をしました。
これまでは原理講義をしてきたのですが、これを愛講義として講義しようとすると、非常に苦悩するのです。
文先生は、
「原理講義をする時に、自分の言葉を付け加えるな」
とも言われましたが、
「原理講義に愛を入れて講義をしてはいけない」
とは言われないでしょう。
そこで、改めて該当の箇所を読み直してみます。
洗礼ヨハネの不信。
イエス様の三大試練。
イスカリオテのユダの裏切り。
十字架をめぐる神様とサタンとの攻防。
40日間のイエス様復活。
聖霊の復帰と霊的重生の摂理。
これらを原理講論は3次の摂理として整理してくれているので、それに添って講義すればさほど難しいことはありません。
しかし、この摂理のどこにどのような愛を劉先生は見つけ出されたのか。
簡単には尋ねてみることもできないので、悩むのです。
よろしければ1クリック!

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
み言葉のジレンマ 2019/03/04
-
「創造原理」神様の要素がすべて人間の中に反映される 2016/06/26
-
ヤコブに2つのプログラム 2018/01/15
-
なんと私は無力で無慈悲なのか 2015/01/14
-
昨年の上半期に「原理の中に神様の創造の情を見つけるのだ!」と思い立ち原理講論を訓読しました。これが難しいのです。読めば読むほどに、私の情の浅はかさが身に染みて、分からないのです。結局、自身の情を広げるべく原理の生活化をはかり、為に生きる事に感謝できる私になる事で、神様との接点を見つけていくしかないのかなぁ。と考えているうちに、日々の生活におわれてしまいまして・・今、ハッ!としてます。