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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

本心と良心は何がどう違うのか

2016/01/08
私の中の世界 5
 20160108 

「良心」については原理講論で何回か触れています。

例えば、創造原理第6節の「生心と肉心人の関係から見た人間の心」の説明はこんなふうです。

常に自分が善であると考えるものを指向する人間の心を「良心」という。
しかし、人間は堕落によって善の絶対的な基準が分からなくなったため、「良心」の絶対的な基準も立てることができなくなり、「良心」を主張する人同士が対立することがある。

そのように「良心」は「自分」が善であると思うものを指向するが、その方向が善の絶対的な基準とずれている場合、「本心」が「良心」に立ちふさがって、善の絶対的な基準へ連れ戻そうとする。

だから、人間には善を指向する心はあるが、「良心」はその形状的な部分であり、性相的な部分が「本心」なのである。


ところが、文先生は説教の中で「良心」ついて、こんなふうに話しておられます。


この時、良心は私たちの中にある神様の代身者となるのです。さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。
(1990.4.9)


原理講論の説明からすれば、「第二の神様」は良心ではなく、本心であると言うべきではないかという気がします。

それでよく
「文先生はあまり細かい言葉の定義などに拘らず、良心を本心の意味で使っておられるのではないか」
と考えたりしたのです。

ところが考えてみると、文先生の中では「良心」と「本心」は一致している。
その2つはずれていないので、区別する必要がないのではないかとも思われます。

本然の立場では、「本心」という言葉だけでもよく、「良心」という言葉だけもいい。
堕落によって心の機能に狂いが生じたために、仕方なく2つの言葉を使って使い分けるしかなくなった。
そのようにも思えます。

それなら、現状において「本心」と「良心」とは、一体どこがどう違うのでしょうか。

これは私なりに考えることですが、
『自分』があるかどうか。それが『本心』と『良心』を分ける
と考えてみます。

「良心」は「自分が善であると考えるものを指向」します。
それに対して、「本心」は「神が善であると考えるものを指向」するのです。
つまり、「本心」には「自分」がない、「自分」という要素がゼロなのです。

一つの例を上げて、考えてみます。

孟子がこんな例を用いて、「仁」について説明した有名な話があります。

例えば、よちよち歩きの幼な子が、今にも井戸に落ち込みそうな場面に出くわせば、誰しも思わず駆けつけて助けようとするだろう。
「可哀想だ、助けてやろう」という気持ちが先立つのであって、「後で何か恩賞があるだろう」などという気持ちは、その瞬間にはない。
これを「あわれみの心」「仁」というのだ。
このような心のないものは、人間ではない。


孟子の言う「あわれみの心」が「本心」あるいは「良心」に近い概念だと思います。

ところで、孟子は「よちよち歩きの幼な子」を例にしているので、上のような論理展開ができるのです。
これがもし「かねてから対立があって、毛嫌いしている隣人」であったらどうでしょうか。

この時、
「こんな奴は助けたくない」
という思いが、心の中に一瞬閃く。
「自分」がある「良心」は一瞬、躊躇する可能性があります。

「自分」には、過去の記憶(多分、自分が意識していない遠い過去の記憶まで含めて)があるのです。
諍いで嫌な思いをした過去の様々な記憶が、善の絶対基準を曇らせるのです。

ところが、「本心」は躊躇しない。
「自分」がないので、過去の記憶もないのです。
それで、善の絶対基準には何のためらいもなく瞬時に反応するのです。


このように考えると、「良心」はどのようにして「本心」に近づくのか。
「自分」をなくした分だけ(言い換えれば、過去の記憶をなくした分だけ)「本心」に近づくことになります。
完全に「自分」がなくなれば、「良心」と「本心」は一致するようになるのではないか。

結局のところ、「良心」の抱える限界は「自分」があるということです。
自分が善であると考える」ので、よくないのです。

これも
「自体自覚」
と言っていいのでしょうか。

私も「自分」で考えているという疑念はあります。


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Comments 5

There are no comments yet.

tenmondai

No title

井戸に落ちそうな毛嫌いしている隣人に対して助けるのを躊躇した時点で、『良心』とはいえないと思います。自分があるのを良心とは言わないと思うのですが・・・。

2016/01/09 (Sat) 10:56

教育部長

tenmondaiさんへ

視点をどこにおいたらいいか、あれこれ思案しました。
提供したのは、その一つです。
これが正しいという自信はないのですが、私なりに納得したいという気持ちで考え、考えしています。

2016/01/09 (Sat) 15:00

諧謔亭 千流

新発見?

>文先生の中では「良心」と「本心」は一致している。

 納得です。
 分かりそうで分からなかった発見だと思います。

2016/01/10 (Sun) 07:26

通りすがりさん

良知

良心は本来、誰もが備わっている機能だと思います。
しかし、助けたいけど、毛嫌いするゆえに躊躇するのは私心が働いる状態だと思います。

例えば、鏡が良心だとすると、私心が邪魔すると曇ってる状態になります。良心を十分に発露させるには無私の状態で鏡を磨いて曇りを取除がなければなりません。

これを進めて「致良知」良知を致す正しい心のはたらきを究極まで発現させることを、陽明学は目指しました。

2016/09/15 (Thu) 23:13

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2016/09/30 (Fri) 01:21