本心と良心は何がどう違うのか
「良心」については原理講論で何回か触れています。
例えば、創造原理第6節の「生心と肉心人の関係から見た人間の心」の説明はこんなふうです。
常に自分が善であると考えるものを指向する人間の心を「良心」という。
しかし、人間は堕落によって善の絶対的な基準が分からなくなったため、「良心」の絶対的な基準も立てることができなくなり、「良心」を主張する人同士が対立することがある。
そのように「良心」は「自分」が善であると思うものを指向するが、その方向が善の絶対的な基準とずれている場合、「本心」が「良心」に立ちふさがって、善の絶対的な基準へ連れ戻そうとする。
だから、人間には善を指向する心はあるが、「良心」はその形状的な部分であり、性相的な部分が「本心」なのである。
ところが、文先生は説教の中で「良心」ついて、こんなふうに話しておられます。
この時、良心は私たちの中にある神様の代身者となるのです。さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。
(1990.4.9)
原理講論の説明からすれば、「第二の神様」は良心ではなく、本心であると言うべきではないかという気がします。
それでよく
「文先生はあまり細かい言葉の定義などに拘らず、良心を本心の意味で使っておられるのではないか」
と考えたりしたのです。
ところが考えてみると、文先生の中では「良心」と「本心」は一致している。
その2つはずれていないので、区別する必要がないのではないかとも思われます。
本然の立場では、「本心」という言葉だけでもよく、「良心」という言葉だけもいい。
堕落によって心の機能に狂いが生じたために、仕方なく2つの言葉を使って使い分けるしかなくなった。
そのようにも思えます。
それなら、現状において「本心」と「良心」とは、一体どこがどう違うのでしょうか。
これは私なりに考えることですが、
「『自分』があるかどうか。それが『本心』と『良心』を分ける」
と考えてみます。
「良心」は「自分が善であると考えるものを指向」します。
それに対して、「本心」は「神が善であると考えるものを指向」するのです。
つまり、「本心」には「自分」がない、「自分」という要素がゼロなのです。
一つの例を上げて、考えてみます。
孟子がこんな例を用いて、「仁」について説明した有名な話があります。
例えば、よちよち歩きの幼な子が、今にも井戸に落ち込みそうな場面に出くわせば、誰しも思わず駆けつけて助けようとするだろう。
「可哀想だ、助けてやろう」という気持ちが先立つのであって、「後で何か恩賞があるだろう」などという気持ちは、その瞬間にはない。
これを「あわれみの心」「仁」というのだ。
このような心のないものは、人間ではない。
孟子の言う「あわれみの心」が「本心」あるいは「良心」に近い概念だと思います。
ところで、孟子は「よちよち歩きの幼な子」を例にしているので、上のような論理展開ができるのです。
これがもし「かねてから対立があって、毛嫌いしている隣人」であったらどうでしょうか。
この時、
「こんな奴は助けたくない」
という思いが、心の中に一瞬閃く。
「自分」がある「良心」は一瞬、躊躇する可能性があります。
「自分」には、過去の記憶(多分、自分が意識していない遠い過去の記憶まで含めて)があるのです。
諍いで嫌な思いをした過去の様々な記憶が、善の絶対基準を曇らせるのです。
ところが、「本心」は躊躇しない。
「自分」がないので、過去の記憶もないのです。
それで、善の絶対基準には何のためらいもなく瞬時に反応するのです。
このように考えると、「良心」はどのようにして「本心」に近づくのか。
「自分」をなくした分だけ(言い換えれば、過去の記憶をなくした分だけ)「本心」に近づくことになります。
完全に「自分」がなくなれば、「良心」と「本心」は一致するようになるのではないか。
結局のところ、「良心」の抱える限界は「自分」があるということです。
「自分が善であると考える」ので、よくないのです。
これも
「自体自覚」
と言っていいのでしょうか。
私も「自分」で考えているという疑念はあります。
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