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愛らしい愛

kitasendo
20160104 

原理講論の「堕落論」に、
「神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない」
とあります。

この宇宙(被造世界)には大きく分けて「原理の力」と「愛の力」という2つの力があり、愛の力のほうが原理の力よりも強いというのです。

なぜ、そうなのか。

完成した人間は愛によってしか主管することができないからです。

完成した人間を主管できる愛。
それを「愛らしい愛」と表現しています。

「愛らしい愛」
とは、一体どんな愛でしょうか。

そのことについて、原理講論にはあまり突っ込んだ説明はないようです。
この「愛らしい愛」について深く説明するには、「原理講論」ではなく、「愛講論」が書かれる必要があるかも知れません。

かつて本体論の講義を受けた時、
「お父様は原理講論から敢えて『愛』という言葉を抜いた」
と聞きました。

そうだとすれば、やはり私たちはこれまで「原理」講論を読んできたことになります。

神様は「愛らしい愛」を求めて創造を始められ、最終的にエバの創造に行き着いたのでしょう。
しかしそのエバを聖書では「善悪知る木」と表現しているのです。

おかしいなあ。
愛らしい愛の目的地であるエバが、どうして「善悪知る木」なのだろう。
そういう疑問が、ずっとありました。

「エバはその愛をもって善の実を実らせることも、また悪の実を実らせることもできる」
ので、「善悪知る木」と表現したというのです。
しかし、これは「原理講論的」な説明という感じがします。

「愛らしい愛」を実体化する最高の対象を神様が、よりによって「善悪知る木」などと命名されるでしょうか。
そのような名前は、女性にとってはあまりにも悔しく、神様にとってはあまりにも心痛い。
堕落したために、仕方なくそう呼ぶしかなかったのでしょう。

本来なら、アダムを「生命の木」と呼ぶのに合わせて、エバは「愛の木」という名がふさわしいようにも思います。

しかし復帰途上にある女性は「善悪知る木」という名に甘んじるしかなく、そこからいかにして「愛の木」に戻るか。
その道は決して「原理講論的」にだけでは表現し得ないでしょう。

「生命の木」「愛の木」となるべき真の父母の道も、原理講論だけでは説明できない。
「愛らしい愛」がわかる水準でないと、真の父母を正しく知ることもできないように思います。


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Admin:kitasendo