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元教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長を辞しても思索する日々

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「私」を主語にしない

20151230 

『世界家庭』(天暦11月号)に載った文妍娥(ムン・ヨナ)様の講話の中で、印象深かった部分を抜粋してみます。


目を開ければ、きょう1日、自分が真の父母様とどのように基準を合わせて生活できるかを考え、昼食時間になれば、真の父母様は何を召し上がったのか、喜ばれたのかを、先ず考えなければなりません。....
自分はこうだった、なぜこうなのだろうと、「私」が主語になり、「私」に対する思いで終わるのではなく、先ず天の父母様と真の父母様に報告し、その基準に合わせていく生活をしなければなりません。
(真のお母様の最近のみ言葉)


ですから、永遠に残るべきもの、私たちは逝ったとしても残していくべきものは何でしょうか。(神様の)「願い」です。残していくべきものは何でしょうか。(神様の)「事情」です。残していくべきものは何でしょうか。(神様の)「心情」です。.... 最後の答えは、これなのです。
(1962年の真のお父様のみ言葉)


先日の記事「
私はその人の中にはっきりと神性を見ている」でも触れたのですが、「侍る」ということについて、もう少し深く悟らされるのがお父様のみ言葉です。

侍る相手が神様であれ、父母であれ、あるいは配偶者、子女であれ、その相手によく侍るためには、その「願い」「事情」「心情」をよく知らないといけないでしょう。
ところが、自分の家族の「願い」も簡単には分からないのに、神様や真の父母様の「願い」を悟るのはもっと難しいと思われます。

例えば、お母様は今でも、毎朝遅くとも3時、早ければ1時頃には起きて、1日を始めておられるそうです。
そして毎日繰り返し「天一国の歌」を聴かれるのだそうです。

「どうして同じ歌を、毎日飽きることなく聴かれるのだろう?」

そのお母様の「願い」や「事情」「心情」を正しく慮ることは、決して容易ではないでしょう。

この時、一番賢明な方法は、
『私』を主語にしない
ということではないでしょうか。

「私はこう思う」
というのは、かなりの曲者です。

この「私」のほとんどは、「堕落性の私」なのです。
父親の裸を発見して葛藤し、恥ずかしいと思ったハムのような「私」なのです。

このような「私」を主語にして考えてしまえば、堕落した先祖の血の中で考えることになります。

「私」を主語にしないで思い、考える。

お母様の何気ない教えは、非常に重要な教訓だと思えます。


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