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人生を取り戻すとき

kitasendo
桜散る  

「医者の言葉の意味が実感としてわかってくると、自分の中にあった何かとても重いものが少しずつ軽くなっていくのがわかりました。やっと自分らしい生き方をする自由を手に入れた気分でした。
とても変に聞こえるでしょうが、人生がこんなに安全だと感じたことがありませんでした。気が変になったのかもしれませんが、こんなに愛情や自由を感じたのはずいぶん久しぶりです。
本当のところ、人生を奪われたというより、人生を取り戻したという気がします。私はもうすぐ死ぬことになっているので、もう完全に自分の人生だということです」
(『余命が1年・・だとしたら』スティーブン・レヴァイン著)

余命数カ月と医師から宣告を受けた人の告白です。
想定外、とでも言うべき、不思議な告白です。

自分自身がこういう宣告を受けたと考えてみましょう。
自分の脳裏にまずもってどのような思いが去来するでしょうか。

「自分はどのように死ぬのだろうか。苦しくはないだろうか」
「やりかけのあの仕事はどうしようか」
「まだ独り立ちしていない子どもたちの行く末をどうしたらいいのか」
「残った財産をどうして、葬式をどうしたらいいだろうか」・・・

あって当然の不安の数々。
しかし、その不安が去った後、多分自分はこう感じるに違いないという想定をはるかに超えて、思いもしなかったようなのびのびした感覚が生まれてくることがある。

それが、
人生がこんなに安全だと感じたことはない
人生を取り戻したという気がする
という感覚です。

余命数カ月の段階であれば、おそらく、やりたい事もできず、行きたい所にも行けず、食べたいものも食べられない状態でしょう。
にも拘らず、
「自分の人生を取り戻した」
とは、一体どういうことでしょうか。

おかしな話のように思えますが、あと数カ月の命と分かった後から、
本当に生きている
という実感を持つことがあり得るのです。

ダライ・ラマ チベット仏教の指導者、ダライ・ラマは58歳になった時、
「次に何をしたいか」
と聞かれて、
死ぬ準備を完了する時期が来た
と答えたそうです。

普通私たちは70年80年の人生を生きますが、
「本当に生きている」
「他の誰のものでもない、誰にも奪われることのない、自分自身の人生」
と感じながら生きているのでしょうか。

その長い人生は、死の宣告を受けた後の数カ月よりも価値があると、きっぱり言えるでしょうか。

同じ著書の中で、

私がこれまで会った人の中で、本当の意味で ”最後の1年” を生きた人はごく少数だ。ほとんどの人は、 "最後” が1ヶ月か2ヶ月、または数週間か数日しかなく、なかには2、3秒しかない人もいた

と書いています。

「自分の命の残りがあといくら」
とはっきり宣告された後から、その期間をどのように生きるかは、すべてその人に任せられています。

もちろん、それまでの人生も同様でしょうが、人生の最期はもっと深刻です。
誰も本当の意味で助けることも、代わることもできません。
その人がそれまで生きてくる間に身につけたすべての内容を総動員して対処するしかありません。

あたかも、深い峡谷に掛かった一本の吊り橋の上を自力で渡らなければならないように、自分に身についた、良く生きるためのバランス感覚を働かせることができるかどうか。
渡る勇気が出ないままに、橋の袂で躊躇している間に、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、もういよいよ時間が無いと観念して渡る一歩を踏み出した時が、死の2秒前だった。
そういう人もいるという話です。

ある意味では、その人のそれまでの人生のすべてが、そこに出ると言ってもいいでしょう。


【お勧め記事】
明日死ぬように生きなさい
余命3年の生き方



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ドラミちゃん

つい先日、縁のあった方の奥様が亡くなられました。気になりつつ、3回ほど病室に伺いましたが、私を見るなり、喜ばれて気丈にお返事されるのですが、その直後には目を閉じて荒い息づかいをされていました。
最近は電子カルテなので、担当でなくても全ての情報が入ります。
亡くなられる、数分前の記録です。詳しくは記憶していないのですが、「・・・これからまだまだ話しをしていかなければいけないことがあったのに。ドラマのようにはいかないのですね。」とこのご夫婦の様子が目に浮かびました。これを記録に残した看護師も、あたたかい心の持ち主だと思いました。
このご主人さんは、社会的に特別な方で、ご主人さんも患者さんとして、初診時から深い繋がりうとなった方です。考え方が独特なため、私は思い切って、自叙伝と、天国を開く門 真の家庭の本をさしあげました。本当は奥様に伝えたかったですね。
自分の死に向かってではなく、人の死期が近づいている時のことですが、何とか私がしてあげたいことは、メシヤを証すること、聖酒を飲ませることです。実際には不可能ですが、実は、3名の患者さんに陰でしてきました。内2名は、とてもいい顔されて夢に出てこられ、私を自己満足させてくださいました。

2010年04月03日 (Sat) 20:57
kitasendo
Admin:kitasendo