主の霊のあるところには、本当の自由がある
コリントⅡ3:17に
「主の霊のあるところには、自由がある」
と言われた。
我々はこのような自由を本心の自由という。
(「原理講論」127)
私たちは例外なく誰でも束縛を嫌い、自由を願います。
しかし聖書は、自由にも2種類あると言っているようです。
パウロはコリントの信徒に向けて、
「主の霊のあるところにこそ、本当の自由がある」
と強調しているのです。
本当の自由があると言うのなら、一方には幻想の自由もあるということでしょう。
本当の自由と幻想の自由。
何がこの2つを分けるかといえば、「主の霊」がそこにあるかどうかです。
私なりに解釈すれば、仏教の教えの核心も、
「いかにして本当の自由を得るか」
というところにあると思っています。
それを得る方法として、仏教は、
「無になれ」
と言うのです。
キリスト教では
「主の霊のもとに身を置け」
と言い、そこで出現する自由を原理で、
「本心の自由」
と呼んでいるのです。
「無になれ」
と言うのと
「主の霊のもとに身を置け」
と言うのとでは一見全く違うようにも思えますが、畢竟、同じことを別の言い方で言っているのかも知れません。
私がすっかり主の霊のもとに来れば、その時「私」はなくなる。
私は「ゼロ」になるのです。
そうすると、私は主の霊と別に生きることはできなくなる。
このことを原理講論では、
「原理を離れた自由はない」
と表現しているものとも思えます。
堕落前の本来の人間には、この本心の自由があったのです。
しかし堕落することによって、この本心の自由を失ったので、復帰途上にある我々はこれを取り戻さなければなりません。
主の霊のもとに帰ればいいのですが、これが難しいのです。
堕落以来のあまりに雑多なものがまとわりついているために、これを取り除いて「無」になることが難しいからです。
どんな雑多なものが私にまとわりついているのか。
それはまた日を改めて考えてみます。
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