記憶「ゼロ」の神様
私のノートPCはHDが500GBですが、メモリは2GBしかありません。
HDは今のところ十分ですが、少し重たい仕事をしようとするとメモリがネックになります。
これを人間の脳と意識に喩えると、HDは潜在意識、メモリは顕在意識。
若い時はメモリが最大になって8GBにも16GBにもなるが、歳とともに次第に縮小し、2GBになり1GBになる。
メモリが小さくなると、物事がすぐに思い出せなくなります。
HDには記憶があるのに、アクセスするには時間がかかるのです。
それで、今日の予定を忘れたり、今日何を買ってきたか忘れたり。
日常生活に支障をきたすようにもなってきます。
若い者からすると、
「どうしてこんなことも覚えてないの?」
とイライラさせられるし、記憶力は良い方がいいに決まっているようにも思われます。
しかし、考えてみると、我々の苦悩は大抵が記憶によるものです。
一言の言葉であれ、瀕死の戦争体験であれ、あらゆる体験は記憶として蓄積され、それが繰り返し蘇ってくることによって、我々は苦しめられ続けるのではないでしょうか。
過去の記憶が消えないので、私はその記憶によって考え、その記憶によって人や物事を見るのです。
嫌な人はいつまでたっても嫌なままであり、つらい体験はいつまでたっても辛いままです。
酷いことをした人は、いつまでたっても許されません。
過去の成功を覚えているから自惚れ、尊大になる。
過去の失敗を忘れられないから恐れ、卑屈になる。
それならいっそのこと、あらゆる記憶は3日間ほどメモリに記憶された後、永遠にHDに埋没してしまえばどうだろう。
あるいは、メモリをぎりぎりまで小さくして、日常生活に最小限必要なものだけをそこに残すようにしてはどうだろう。
パソコンなら、それも設計次第でできそうですが、人間の脳ではどうにもならないでしょう。
神様に設計のし直しを頼むしかありません。
そもそも神様はどうして、我々に記憶などというものを持つようにされたのでしょうか。
思うに、多分、神様ご自身にも記憶をすべて残すシステムが内在するのでしょう。
それでいかなる被造物もその内に記憶システムを持っているのです。
しかし、神様がこの世界を創造される以前はどうだったのでしょうか。
神様には多分いかなる記憶もなかったものと思われます。
神様にはまだいかなる体験もなかったのです。
体験がなければ、記憶もないのが道理です。
その時、神様には記憶はないが、希望があったでしょう。
願いがあり、夢があったでしょう。
具体的な形のない希望、願い、夢です。
形がないので、あらゆる可能性を持っています。
そこから寸分違わぬ絶妙な創造が始まります。
この状態を
「ゼロ」
と表現してみます。
メモリだけでなく、HDもまっさらな状態です。
もし我々もこの「ゼロ」の状態に戻ることができれば、そこにはいかなる記憶もあり得ないことになります。
記憶によって苦しむ必要もないし、記憶に基づいて考える必要もありません。
私がそこで持てるものは、無限の可能性を持った希望であり、願いであり、夢だけです。
そこまで戻れば、その時私の蕩減もすべて終わる。
蕩減も「ゼロ」になるのです。
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