罪の定義を再考する
ある時、夜中に目が覚めてそのまま寝つけず、うつらうつらしている時に、ふと頭に浮かんだ事があります。
夜中の妄想ですから、ニガリの足りない豆腐のような感じで、ふわふわしてあまり論理的ではありません。
原理講論の「堕落論」では、罪を次のように定義しています。
サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことのできる条件を成立させることによって、天法に違反するようになること。
天法とは何だろうか。
法だと言っても、どんな法なのだろうか。
人間同士が話し合って取り決めたこの世の法とは違うとしても、法であるなら、その法自らを善として、それに違反するものを悪と規定するのでしょう。
それなら、神様は最初から法に対する悪というものを想定されたのでしょうか。
また、法を破ることが罪であるなら、それを清算するすることも法によって定められているはず。
牢屋に入るか、罰金を払うか、犠牲奉仕するか。
しかし、愛から出発したはずの神様の創造の世界でなぜ罪が法で規定されてしまうのか。
そもそも、罪などという概念が生じ得るのだろうか。
その時、ふとこんなアイデアが私の頭に浮かんできたのです。
神様の愛は、この宇宙のいかなる所にも、自由に行き渡る。
どんなに小さな隙間にさえ、沁み込むように愛は入っていって、愛で潤してしまう。
愛の行かない所がない。
ところが、堕落とは何か。
その自由な神様の愛を拒絶し、阻止してしまう。
「私は神の愛が要らない。私の心の器に神の愛は合わない」
そんなふうに感じるねじ曲がった心。
そうすると、神様が愛せない領域ができる。
神の愛の不在空間が形成されてしまう。
神様にとって、愛せない所があることほど心を痛める辛いことはない。
それが罪だ。
そうだとすると、罪の定義はこのようになるでしょう。
罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、神の愛が自由に行き渡ることのできない領域を作り出してしまうことである。
このように考えると、罪の清算の方法も、当然変わってくるでしょう。
牢屋や罰金では償いきれません。
神の愛が届かなかった領域を消し去ること、あるいは、その領域に神の愛を再び呼び込むこと。
これが罪を清算する方法だということになります。
その領域とは、先ずは私の心から始まり、その次に私の家庭。
そこから氏族、国家へとその範囲は順次広がっていくでしょう。
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