原理はちっとも難しくないのに
昨日の記事で書いた
「教会長が原理講義をガンガンやっていくべきだ」
という先輩の話から考えたことを、もう少し整理しておきたいと思います。
考えたことは、次の2つに整理できます。
① 魅力的な講義とはどういう講義か
② これまで我々は原理の価値をかなり低めてきたのではないか
先ず①について。
これまでの私の講義を正直に振り返ってみると、
「原理を伝える講義の域をあまり超えなかったな」
と思います。
「原理を伝えて」その人が「原理を理解」すれば、その人は原理的に変わっていくはずだ。
そのような人が増えていけば、次第に世の中も変わっていくはずだ。
「原理を信じて実践すれば、原理の力がその人を変える」
言葉にしてみれば、そんなふうに考えてきた嫌いがあります。
しかし、最近(今更)考えてみると、講義の眼目はどうも「伝える」ところにあるのではない。
原理を伝えるのではなく、
「私が原理の実体になる」
あるいは
「私が原理的な愛の人になる」
というところにその意義があるのは言うまでもないのです。
原理のみ言葉は、私たちの内面にある「本性」に届き、それを喚起する力を持っています。
私の中の本性が覚醒し、動き出しさえすれば、私は嫌でも原理の人に向かって成長し始めるのではないか。
講義というのは決して「ある知識」の伝達ではない。
講義する実体と講義を受ける実体との、神様を中心とした生命のやり取りでしょう。
そういう講義ができれば、それは必ず、
「魅力的な講義」
となるはずだろうと思います。
ところが、なかなかそういう講義ができなかったことが、結果的に原理の価値を低めるという②の問題となってきたようにも思うのです。
「初めての人に、原理は難しすぎる」
「原理の前に先ず、中心人物としての自覚を持たせる必要がある」
そういう原理理解のもとに、原理以外のものを「手段」として使う場合がありました。
ところが、そういう手段で、私の中の本性を覚醒できるのか。
堕落性を脱げるのか。
「原理は高等宗教だから、理解するのは難しい」
とよく言うのですが、そうではないでしょう。
真のお母様は、
「原理の全体は2つのみ言葉『愛しています』『感謝します』に全て含まれる」
と言われました。
これを考えれば、原理はちっとも難しくないのです。
しかし、理解するのは難しくなくても、それによって2つのみ言葉の実体「愛の実体」「感謝の実体」になれるとすれば、それはやはり高等宗教なのです。
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