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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

原理はちっとも難しくないのに

2015/12/15
瞑想三昧 2
20151215 


昨日の記事で書いた
教会長が原理講義をガンガンやっていくべきだ
という先輩の話から考えたことを、もう少し整理しておきたいと思います。

考えたことは、次の2つに整理できます。


① 魅力的な講義とはどういう講義か
② これまで我々は原理の価値をかなり低めてきたのではないか


先ず①について。

これまでの私の講義を正直に振り返ってみると、
「原理を伝える講義の域をあまり超えなかったな」
と思います。

「原理を伝えて」その人が「原理を理解」すれば、その人は原理的に変わっていくはずだ。
そのような人が増えていけば、次第に世の中も変わっていくはずだ。

「原理を信じて実践すれば、原理の力がその人を変える」
言葉にしてみれば、そんなふうに考えてきた嫌いがあります。

しかし、最近(今更)考えてみると、講義の眼目はどうも「伝える」ところにあるのではない。

原理を伝えるのではなく、
「私が原理の実体になる」
あるいは
「私が原理的な愛の人になる」
というところにその意義があるのは言うまでもないのです。

原理のみ言葉は、私たちの内面にある「本性」に届き、それを喚起する力を持っています。
私の中の本性が覚醒し、動き出しさえすれば、私は嫌でも原理の人に向かって成長し始めるのではないか。

講義というのは決して「ある知識」の伝達ではない。
講義する実体と講義を受ける実体との、神様を中心とした生命のやり取りでしょう。

そういう講義ができれば、それは必ず、
「魅力的な講義」
となるはずだろうと思います。


ところが、なかなかそういう講義ができなかったことが、結果的に原理の価値を低めるという②の問題となってきたようにも思うのです。

「初めての人に、原理は難しすぎる」
「原理の前に先ず、中心人物としての自覚を持たせる必要がある」

そういう原理理解のもとに、原理以外のものを「手段」として使う場合がありました。
ところが、そういう手段で、私の中の本性を覚醒できるのか。
堕落性を脱げるのか。

「原理は高等宗教だから、理解するのは難しい」
とよく言うのですが、そうではないでしょう。

真のお母様は、
「原理の全体は2つのみ言葉『愛しています』『感謝します』に全て含まれる」
と言われました。

これを考えれば、原理はちっとも難しくないのです。
しかし、理解するのは難しくなくても、それによって2つのみ言葉の実体「愛の実体」「感謝の実体」になれるとすれば、それはやはり高等宗教なのです。


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Comments 2

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tenmondai

原理以外のものを手段として使い、原理に導くと言う方法は、本来の道ではないと思いますが、一つの方法だと思います。ただ、今まで問題になったのは、その手段が目的になってしまったことです。

2015/12/16 (Wed) 06:34

教育部長

tenmondaiさんへ

手段が目的化してしまったとしても、なぜそうなったのか。その辺りをよく見極めないと、なかなか本道に戻れないかもしれない。そんな気もします。

2015/12/16 (Wed) 19:32