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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神様が摂理される人

2015/12/08
原理を学ぶ 0
20151208   

四十日審判によりサタンを分立した立場にあったノアは、天地創造直後のアダムの立場に立たねばならなかった。ここで神はノアが裸でいても、その家族たちがそれを見て恥ずかしがらず、また隠れようともしない姿を眺めることによって、かつて彼らが罪を犯す前に、どこを覆い隠すでもなく、ありのままに裸体を現していた、汚れのない人間の姿を御覧になって、喜びを満喫されたその心情を蕩減復帰しようとされたのである。神はこのようなみ意を完成なさるため、ノアを裸で寝ているように仕組まれたのである。

ところが、ノアの子らはこれと反対に、その父親の裸を恥ずかしく思ってこれを着物で覆ったので、彼らは、堕落後のアダムの家庭と同様に、サタンと血縁関係を結んだ恥ずかしい体となり、神の前に出ることができないという事実を、自証する立場に立つようになったのである。ゆえに、既にからすによって見せてくださっていたように、ノアの家庭に侵入できる何かの条件がないかとねらっていたサタンは、自分の血縁的な子孫であることを自証してでたノアの子らを対象として、その家庭に再び侵入するようになった。
(原理講論「ノアの家庭を中心とする復帰摂理」)


先日、青年を相手に「ノア家庭」の講義をしました。

ノアは120年にわたる箱舟建造、40日間の洪水審判などを通して信仰基台を復帰した。
ところが、その次男であるハムの不信の行動によって、実体基台の摂理は行うことができなかった。

この後半部分、ハムはどのようにしてその責任を果たせなかったのかという箇所を、少し入念に講義してみました。

洪水審判が終わった後、ある日ノアがブドウ酒を飲みすぎて酔っ払い、裸になったまま天幕の中で眠っていた。
それを最初に見つけたハムが兄弟を扇動して父に覆いをかけたところ、それが咎となったというのです。

その意味を、原理講論では2つの立場から説明しています。
一つは、神様の立場、っもう一つはサタンの立場です。

ノアの裸を神様はどのように見ておられたのか。
はるか昔、アダムとエバが堕落する以前、彼らの裸の姿を眺めて喜びを満喫していた、その時の心情を蕩減復帰しようと考えておられたのです。

ところが、ハムは父親の裸を見て「恥ずかしい」と思った。
それは、ハム自身が堕落したアダムエバの血統的な子孫であることを自証する行為であると、サタンは見做したのです。

この部分を読むと、私たちの感覚はむしろハムに近い。
裸はどう考えても「恥ずかしい」のです。
神様の要求は、私たちの感覚からすると、ちょっと突拍子もない。
そういう感じがします。

しかし、サタンはそういうハムの感覚を讒訴し、彼を奪ったのです。

ハムの問題は、何だったのでしょうか。

彼の問題は、
「先祖の血の中で生きていた」
ということです。

彼自身はおそらく無自覚だったでしょうが、彼は堕落した始祖の血を受け継ぎ、その後1600年間続いた血統の遺伝子を(霊的にも)受け継いでいました。
それで、彼が感じる感じ方、考える考え方のほとんど全ては、堕落した先祖と同じパターンを自然に繰り返していたのです。

お父さんが山の上に巨大な船を造るなどという途方もないことを始めると、
「お父さんは狂ったのか?」
と考える。

大洪水という劇的な出来事を目の当たりにすると、初めて、
「お父さんは正しかった。どうやら神様の声を本当に聞いていたらしい」
と考える。

そして、再び旧来の穏やかな生活が始まり、お父さんが酒を飲み始めると、
「やっぱりお父さんは、普通の人だ。方舟の時代は特別だったようだ」
と考える。

こういう、目の前に現れる現象を通してのみ考える思考のすべてが、彼の先祖たちの思考方式とまったく同じだったのです。

ところが、それをサタンは引っ掛けたのです。

私たちも普通には、ハムと同じような立場で感じ、考えることが多いでしょう。
しかし、そのままだと、サタンの罠に引っかかっているということです。

「神様が摂理される人」
になれないのです。

「いかにして、先祖の血で考えない人になるか。いかにそこから解放された私になるか」

これが私たちの信仰基台だと言えます。


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