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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

その人の運命の象徴なのです

2015/12/04
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20151204 

普通ぼくらの考えている自由とか偶然とか、そういう考え自体は物理の物性の偶然性とか自由性とかいうことと、ぼくははっきり違うのじゃないかと思うのです。
たとえば、屋根から石が偶然に落っこちてきてある男が死んだ。そういうときに使われている偶然という考え方でも、石という物理的な物性の運動だけを考えているわけじゃないので、石にある人間的な意味を持たして考えているのです。
持たすから偶然という一つの感じ ..... 一つの生活感情が生じます。石が落ちて怪我をしたか死んで了ったかという問題は、物理学的には同じ偶然性の問題だが、人間の偶然感にとっては大きな違いが出て来る。落ちてきた石は、その人の運命の象徴なのです。
(「人間の進歩について」小林秀雄が湯川秀樹との対談で)


この対談は、1948年、湯川博士がノーベル物理学賞を受ける前年です。

「自由と偶然」
もう70年近く昔の対談ですから、その時から物理学がどれほど進歩したのか、私はよく知りませんが、対談で扱っているのは今でもとても興味惹かれるテーマです。

湯川博士は物理学者の観点から、こんなふうに言います。

19世紀的な見方をすれば、一つ一つの原子はある定められた運命を持っている。今から1時間後に壊れるとか、そういう運命は機械的にちゃんと決まっている。.... そう解釈しておったわけです。
ところが20世紀的な解釈では、一つ一つの原子はどれが1時間後に壊れるとか、どれが10年後に壊れるとかいうことはあらかじめ決まっておらない。どれもみんな同じなのですから、まったく同じ顔つきをした原子のうちのどれがさきに壊れるとか、どれが後から壊れるとかいうことを区別することはできない。


この世の森羅万象は、その微細な原子から構成されているのですが、原子のレベルでは「偶然」としか見えない動きが、一個の人間のレベルになると、「運命の象徴」になってしまう。
なぜなのだろう?
不思議な感じがします。

しかし、確かに我々はそういう感じ方をするのです。

昨日の記事で書いた一つの証もそうです。

「自分は何もしていないのに、突然後ろから車に追突された。そういう時、神意を感じて感謝できるだろうか?」
という講義を聞いたその翌日、まったくその通りのことが起こった。

そうすると、その出来事はどうしても「偶然」とは思えない。
それが我々の感じ方なのです。

それが偶然なのか、偶然ではないのか(運命の象徴なのか)、そのどちらも証明することはほぼ不可能なように思えます。
あとは、我々の思い方次第、感じ方次第なのです。

人は何を信じて生きたいのか。
人生は偶然の連続だと信じて生きたいのか、それとも、私の人生には神様の意図が介在して来ると信じて生きたいのか。

ここには物理法則とは別の次元の、なにか違う法則があるように思われます。

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