私はその人の中にはっきりと神性を見ている
複数の場で「信仰生活講座」を続けながら、その信仰生活におけるキーワードを考えています。
これまで講義してきたものとしては、
「信じること」
「感謝すること」
の2つを挙げています。
そしてもう一つ、
「侍る」
というキーワードを加えるべきではないかと考えています。
講義ができるほどには、まだ頭の中できれいに整理されていないのですが、今の時点で漠然と思っていることを記しておくことにします。
「侍る」
という言葉は、もちろん日本語ですが、韓国語「モシダ」の訳語としてその概念が輸入され、日本の教会で定着して来るにつれて、それまで日本ではさほど明確に意識されなかった信仰世界が造形されてきたように思います。
正しく「侍る」生活ができれば、信仰生活には限りなく豊かな色合いと深みが増していく。
心霊は着実に成長する。
そう言っても、決して過言にはならないと思えるのです。
「侍る」
というのは、もちろん、
「仕える」
ということとはかなり違います。
「愛する」
「大切に思う」
「敬う」
というのとも同じではありません。
一部重なる部分もありますが、それまでの日本語では包含し切れなかった何かが「侍る」という言葉にはあるような気がするのです。
例えば、
「神様に侍る」
とも使いますが、同時に、
「夫婦で侍り合う」
「子女に侍る」
というふうにも使えるのが「侍る」という表現です。
原理の内容と関連して言えば、
「個性完成も家庭完成も主管性完成も、すべて『侍る』ことで可能になる」
とさえ言えるのではないかと考えます。
私が誰かに「侍る」という時、その大前提には、
「私はその人の中にはっきりと神性を見ている」
ということがあるのです。
「夫婦で侍り合う」
と言えば、夫は妻の中に、妻は夫の中に、それぞれが神様からいただいた極めて貴い「神性」を感じ取っており、その感性に基づいて相手に接するということです。
「子女に侍る」
というのも、まったく同じです。
従って、「侍る」という概念の中には、年齢の上や下、地位の高い低いなどは本質的に関係ありません。
子女が父母に侍ることができるのとまったく同じように、父母も子女に侍ることができます。
「できる」
というより、すべての人間関係の基本には、この「侍る」という概念がなければならない。
それが本来の人間関係だと言うべきです。
信仰生活においては、このような「侍る」という概念に沿って、すべての人間関係、さらには神様との関係までも整理し直さなければならないと考えられます。
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