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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

なぜ「信じる」か

2015/11/23
信仰で生きる 0
20151123

祝福に向けて学んでいる青年たちに講義を始めました。
3回目の講義は信仰講座で、「感謝と信仰」。

「これまで原理を学んで来て、神様を信じるようになりましたか?」
と問いかけると、首を傾げています。

「信じると言っても、いくつも段階がありますが、ここで学んでいただく目的は『信じる』ところにあります」

そのように話し始めながら、信仰の意味について少し説明しました。


人生の中には嬉しいことも困ることも起こります。
それらは偶然に起こることでしょうか。
それとも、さまざまな因縁、因果の法則によって起こるのでしょうか。

たまたま知りあった友人から電話の誘いを受けて教会に来た。
結婚の世話をしてくれるかと思って来てみると、思いもかけず原理を紹介され、学び始めた。
今日はここで、教育部長から講義を受けるようになった。

こういうことは偶然のなり行きなのでしょうか。
それとも、何か特別な誘引条件によって起こっているのでしょうか。

皆さんが神様を知ったけれども、本当におられるのかどうか、今はまだ半信半疑です。
そうすると、今回起こった出来事は神様が導いたことかもしれないし、偶然かもしれない。
半分は信じられるが、半分は信じられない。

そういう状態だと、嬉しいことが起これば、
「神様、ありがとうございます」
と感謝できても、嫌なことが起これば、
「どうしてこんなことが起こるのか。まったく運が悪い」
というふうになります。

神様を信じるというのは、どんなことが起こっても、その全ては神様と無縁ではないと信じるということです。
嬉しいことも嫌なことも、全ては神様が関与し、神様が起こしたと信じることです。

あることは神様が関与し、あることは神様と無関係に起こる。
神様を信じるとは、そういう段階を超えることです。

ここで学ぶ目的は、この「信じる」ということにあります。

「学ぶ」ことによって、まず「知る」ことができます。

神様は二性性相である。
神様の願いは三大祝福の完成である。
人間は堕落して神の血統を失った。
人類の歴史は神様の復帰摂理歴史である。

しかし「学ぶ」目的は「知る」ことに留まるのではなく、「知る」ことによって「信じる」ところにあります。

なぜ「信じる」必要があるのでしょうか。
あらゆることに神様の意図があると信じることで、あらゆることに「感謝」することができます。

学ぶことによって、さまざまなことを知ることができますが、最も重要なのは、
「神様は私の父母である」
ということです。

そうであるからこそ、神様の意図は必ず、
「子女である私を幸福にしよう」
という一点にあると信じることができます。

聖書に、
「あなたがたの父の許しがなければ、その(スズメの)一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(マタイによる福音書10:29-30)
というイエス様の言葉があります。

神様が私のすべてを知っておられるのは、「管理者」としてではなく、父母としてです。
それゆえに、私にとって困ることが起こったとしても、そこには「父母の善なる意図」があるに違いないと信じることができるのです。


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