なぜ「信じる」か
祝福に向けて学んでいる青年たちに講義を始めました。
3回目の講義は信仰講座で、「感謝と信仰」。
「これまで原理を学んで来て、神様を信じるようになりましたか?」
と問いかけると、首を傾げています。
「信じると言っても、いくつも段階がありますが、ここで学んでいただく目的は『信じる』ところにあります」
そのように話し始めながら、信仰の意味について少し説明しました。
人生の中には嬉しいことも困ることも起こります。
それらは偶然に起こることでしょうか。
それとも、さまざまな因縁、因果の法則によって起こるのでしょうか。
たまたま知りあった友人から電話の誘いを受けて教会に来た。
結婚の世話をしてくれるかと思って来てみると、思いもかけず原理を紹介され、学び始めた。
今日はここで、教育部長から講義を受けるようになった。
こういうことは偶然のなり行きなのでしょうか。
それとも、何か特別な誘引条件によって起こっているのでしょうか。
皆さんが神様を知ったけれども、本当におられるのかどうか、今はまだ半信半疑です。
そうすると、今回起こった出来事は神様が導いたことかもしれないし、偶然かもしれない。
半分は信じられるが、半分は信じられない。
そういう状態だと、嬉しいことが起これば、
「神様、ありがとうございます」
と感謝できても、嫌なことが起これば、
「どうしてこんなことが起こるのか。まったく運が悪い」
というふうになります。
神様を信じるというのは、どんなことが起こっても、その全ては神様と無縁ではないと信じるということです。
嬉しいことも嫌なことも、全ては神様が関与し、神様が起こしたと信じることです。
あることは神様が関与し、あることは神様と無関係に起こる。
神様を信じるとは、そういう段階を超えることです。
ここで学ぶ目的は、この「信じる」ということにあります。
「学ぶ」ことによって、まず「知る」ことができます。
神様は二性性相である。
神様の願いは三大祝福の完成である。
人間は堕落して神の血統を失った。
人類の歴史は神様の復帰摂理歴史である。
しかし「学ぶ」目的は「知る」ことに留まるのではなく、「知る」ことによって「信じる」ところにあります。
なぜ「信じる」必要があるのでしょうか。
あらゆることに神様の意図があると信じることで、あらゆることに「感謝」することができます。
学ぶことによって、さまざまなことを知ることができますが、最も重要なのは、
「神様は私の父母である」
ということです。
そうであるからこそ、神様の意図は必ず、
「子女である私を幸福にしよう」
という一点にあると信じることができます。
聖書に、
「あなたがたの父の許しがなければ、その(スズメの)一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(マタイによる福音書10:29-30)
というイエス様の言葉があります。
神様が私のすべてを知っておられるのは、「管理者」としてではなく、父母としてです。
それゆえに、私にとって困ることが起こったとしても、そこには「父母の善なる意図」があるに違いないと信じることができるのです。
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