人生は二度読めない
ドストエフスキイがこんな事を言ってるんだ。
自分は若い頃、人生は簡単だと思っていたが、経験を重ねるに従って、人生は複雑なものだと悟った。ところがもっと人生に暮らしてみると、人生なぞ簡単なものだと思うようになった。
そう言ってるんだよ。
これは、複雑で大事なのは思想の方だと思ったということなのではないかと思うのだよ。
人生は二度読めない。二度読めるのは思想です。
(「文学と人生」小林秀雄と三好達治の対談)
「人生は二度読めないが、思想なら二度でも三度でも読める」
このことについて、私なりに少し考えてみます。
同じ対談の中で、小林が藤原ていの『流れる星は生きている』を読んだ時の体験を話しています。
私はそれを読んだことがないのですが、先の大戦の後、満州から朝鮮の38度線を越えて引き上げてくる女性の話です。
その体験は並の体験ではないので、一度は引き込まれるように読む。
しかし、それを2度読む気にはならない。
人生の体験自体はどんなに並外れたものであっても、一度読めば興味が満たされる。
これが「人生は二度読めない」ということです。
ところが、その小説を読むときに、一つ面白いことがあった。
小林の妻もそれを読んだが、読みながら、
「ああ、この人は信州の人だ」
と思った。
そして最後まで読んだら、本当にその女性は信州に帰っていったというのです。
書き手はなかば無意識に書いているのだろうが、作品には女性の信州人らしい性格や気質が滲み出ていたということでしょう。
「そういうところは面白い」
と小林は言います。
これが「二度読めるのは思想」という意味です。
この話の意味するところはつまり、
「本当の人生は人生の体験そのものではなく、その体験の意味、すなわち体験をどう解釈するかというところにある」
ということだろうと思います。
私が文先生の生涯路程を講義しながら、どこか似たようなことを感じます。
文先生の人生も並の人生ではありません。
投獄、拷問、迫害、世界的活動、どこを見ても波乱万丈。
しかも、単に個人的な野望の人生ではありません。
しかしそれを講義すると、特に最初の人であれば、内容は偉大な人生のストーリーになるのです。
それを聞いて、大抵の人は、
「へえ~、すごい人生、すごい人ですね」
と驚く。
しかしそれは所詮「二度は読めない人生」なのです。
重要なのはその人生ではなく、「思想」のほうにこそあります。
別の人の人生はどこまでもその人の人生であって、「私」にはつながりません。
しかし、その人の人生の思想は私の人生にも直結する可能性があります。
文先生の数十年前の人生が、今の自分にどう関係するのか。
その点がしっかりと意識され、強く伝わる講義でなければ、単なる「人生路程講義」に終わってしまいます。
ここがいつも苦慮するところです。
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