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どこまで変わるか、原理講義

kitasendo
20151109

教育部長になって10年余り、その間に相当回数の原理講義をしてくると、講義内容に変遷があるのを感じます。
ある面では、当然のことのようにも思えます。

教育部長になって間もない頃に私の原理講義を受けたある婦人が、時々感慨深げに言うことがあります。

「部長さんの原理講義、私が受けた時と今とでは雲泥の差ですね。あの頃、部長さんの講義はほんと下手だったんだから」

率直な人です。
喜んでいいのか、悲しむべきか、複雑な気持ちになります。

それにしても、どんな講義が上手い講義なのか。
これはまたちょっと難しい問題です。

原理講義が変化する一つの要因は、講義の中にそれまでなかった要素が入ってくることです。
これが良いことかどうか、これまた難しい問題です。

言うまでもないのですが、「原理講論」は1960年代に出版されて以来、ほとんど変わっていません。
しかしそれを元にした原理講義は変化するのです。

例えば、原理講義に関わる内容を文先生のみ言葉の中に発見する。

「えっ。これは原理講論の中には書いてない内容だ」
とか、
「えっ。これは原理講論の論旨とはちょっと違うな」
というようなことがあります。

「でも、こういう観点があると、原理講義が深まるな」
と思うと、それを講義に入れることがあるのです。

ところが、こういう要素は文先生のみ言葉だけではない。
これがちょっと問題です。

例えば、あるベテラン講師の講義を聞いていたら、こんな内容があった。
あるいは、教理の担当者がこんな解釈をしていた。

そういうこともあります。

それで年月が経つうちに講義に入り込んだ要素が、一体どこから来たものだったか、自分でも判然としなくなったりするのです。

要するに、さまざまな要素がさまざまな所に入り込んで、段々と独特な原理講義になる。

「そういう内容は原理講論にないですよね。どこから来た内容ですか?」
と尋ねられると、
「はて、原典はどこだったかな?」
ということになったりします。

学術論文だったら、引用があればその引用元を明記するのは必須です。
しかし原理講義の場合は、そういう点がさほど厳密ではありません。

「講義に自分の言葉を入れるな。原理講論通りに講義せよ」
と文先生が言われたのは、そういうことを考慮、心配されてのことでもあるでしょう。

最近私が考えるのは、
「愛が伝わる原理講義をするには、どうしたらいいだろう」
ということです。

原理講論はとても論理的な文章で書いてあるので、それをそのまま講義すると、鋭さはあっても愛がどれほど伝わるだろうか。
論理的な文章の行間に、どのように神様の愛が隠れているのか。
それを探しだした原理講義でなければ、良い講義にはならないと思うのです。

そういう原理講義ができるようになれば、教会の教育はこの原理一本で十分になるだろう。
そんな気がしています。


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Admin:kitasendo