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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

人生がもともと戦なのだ

2015/11/04
愛読作家たち 0
20151104 

見方 → 思い → 取り組み → 実体

この流れは、物事が正常に達成される順番です。
そもそも、神様の創造がこの順番でなされたので、再創造も同様にこの順番に則る必要があります。

ところが、我々の日常生活では往々にして、最初の「見方」と次の「思い」を飛ばして、すぐさま「取り組み」から始めようとすることがあるように思います。

何らかの課題が出てきたとき、
「どうしたらいいだろう? どこをどう変えたらいいだろう?」
と考える。

これは「取り組み」です。
行動、と言ってもいいでしょう。

この「取り組み」は、神様の創造過程においては、実際に何かを造る段階です。

しかしその前に、
「なぜ造るのか? 何を造るのか?」
という段階があるはずなのです。

私はしばしば小林秀雄の「見方」に驚くことがあるのですが、先日もこんな一節に出会いました。

戦は好戦派という様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戦だから起こるのである」 (『戦争と平和』)

小林がこれを書いたのは昭和17年、戦争の真っ最中です。

国と国との戦争はこの世で最も厄介な、解決の難しい問題でしょうが、そんなレベルでなくとも、我々の日常にはさまざまな「戦」、諍いが起こっています。

それは一体なぜ起こるのか?

普通には、誰か争い好きな輩がいて、自分の利益を独占あるいは拡大しようとして争いを吹っかける。
一方に悪なる加害者がいて、他方に平和好きな被害者がいる。
そんなふうに「見る」のです。

ところが、小林はそう見ない。
世の中には、悪い奴と良い奴がいるのではない。
どんな人間の中にも「戦」があって、それがあらゆる外的な争いの元凶であると「見る」のです。

このように見ると、自分と人を見る「見方」が違ってくるし、「思い」も違ってきます。
そして当然、「取り組み」も違ってくるのです。

ある組織に問題が起こったとします。

するとすぐさま、
「誰が問題の責任者か? 誰が悪いのか?」
という責任者探しの「取り組み」が始まります。

そして、
「この担当者が不正をした。あるいは社長、会長が悪い。辞めさせろ」
ということになって、その非を追及し、責任を取らせ、それで一件落着と考えるのです。

しかし実のところ、問題の根は何も解決していない。
責任を取らされた人だけではない、責任を追及したすべての人の中にも等しく「戦」があるという「見方」がないので、その内的な「戦」はしっかり温存されたままなのです。

それでその内的な「戦」はまたいつかどこかで外的に再発し、際限なく同じことが繰り返されることになります。


創造の原理はあらゆる人、あらゆる次元で適用されるはずです。
とすれば、家庭であれ職場であれ、どこのどんな人間関係の改善も、すべからく「見方」から始まらねばなりません。


ところで、小林はなぜそういう「見方」ができたのか。
これが不思議です。

我々も、より正しい「見方」から出発しようとすれば、どうすればいいのでしょうか。

創造原理は、
「神はそのかたちに似せて人を造った」
と言います。

人として生まれたからには、全ての人に「神性」が宿っていることになります。

ところが堕落論では、
「人は愛の過ちを犯して堕落し、罪と堕落性の塊となった。無価値な存在になった」
と言います。

そして復帰原理では、
「人が旧に復すためには自己否定の蕩減復帰の道を行かねばならない」
と言うのです。

さて、私という人間は一体何者なのか。
私の配偶者は一体何者なのか。
私の子どもたちは一体何者なのか。
分派と呼ばれる人たちは一体何者なのか。
正統と自称する人たちは一体何者なのか。


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