アイデンティティが実体化する
私のアイデンティティは一体何か。
原理を学んでみると、元々人間は神様の似姿に創造されたという最高の人間観に感動を受けます。
しかし現実には、神様の実体になる前に堕落し、罪と堕落性に満ちた惨めな存在に転落したとも知るのです。
サタンは神様にとって「愛の怨讐」となり、人間は天使に騙され、堕落した後にはサタンの支配下に踏みつけられる、愚かで無力な被害者のようになったと感じられます。
このような原理を学んだ私は、一体どこから出発すべきなのか。
ここで、私自身の「アイデンティティ」が重要になってきます。
「私は罪まみれた堕落人間だ」
と自分自身を見做せば、私はそこから出発するしかありません。
「私は価値のないダメ人間だが、努力して少しでも本来の自分に近づいて行こう」
と自分自身を励ましながら頑張りますが、上手くいかないと落胆し、自信を失います。
祈ればどうしても、
「神様、足りなくて申し訳ありません。あなたを喜ばせることができず、お許し下さい」
と、謝罪と悔い改めの祈りになりがちです。
「私は絶対に消防士に向いていない」
と思いながら、消防士になるために一生懸命に努力しても、立派な消防士になることは難しいでしょう。
立派な消防士になるためには、
「自分は消防士になるべく生まれた」
というくらいのアイデンティティを持たなければなりません。
アイデンティティが実体化するのです。
「私は神様の子だ。神様の性相を持っている」
と思えば、ヘマをしたり、ちょっと道をそれたとしても、
「私らしくないことをしてしまった。克服しよう」
という態度になるでしょう。
先天時代には、自分自身を罪人として見做しながら、そこから這い上がることを目指しました。
しかし今の時代は、「神のかたち」であることを自らのアイデンティティとして、いかにそれを実体化するかを目指す時代ではないかと考えます。
自分を「神のかたち」と思えなければ、他の人の中にも「神のかたち」を発見することがどうしてもできません。
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