教会の研修会議に参加するのに片道4時間もかかったので、往復の道々、先日参加した「親セミナー」の講座をだいぶ聞き直しました。
改めて聞いてみて、自分の甘さに気づきました。
これまで自分なりに親として70点位はあると自惚れていたのですが、客観的に値踏みしてみると、せいぜい30点、もしかすると、子どもからの評価はもっと低いかも知れないという気になったのです。
講師が繰り返し強調した点の一つが、
「もっと心を使え」
ということです。
信仰者は意外と心を使わない。
「原理」という素晴らしい真理があるので、これで大抵のことは収めていけると思っている。
「心を使わずに、原理を使う」
これは、信仰者を襲う「誘惑」とも言えます。
心を使わないというのは、まず、相手の心を尋ねないということです。
例えば、子どもが時々学校に行きたがらず、朝、布団から出ない。
すると親は、
「なぜ行かないか? 私は学校休んだことなんかないぞ。怠けるな!」
と怒鳴って、無理やり布団から追い出そうとする。
「なぜ学校に行きたがらないのか」
という、子どもの気持ちを聞こうとしないのです。
子どもがなにか問題を起こしたとき、その行動が原理に外れている。
すると、原理に立脚してその行動を批判し、正そうとしながら、その行動の動機に関心を持とうとしない。
こういう振る舞いが私にも一度ならず二度三度とあったことを、講座を聞き直しながら思い出したのです。
なぜ、行動自体に目を奪われるのか。
原理は行動として現れると考えているからです。
「原理がわかっていれば、こんな行動はしないはずだ。原理的な行動をするはずだ」
と考えます。
行動は勿論重要ですが、それよりも我々は「実体」を重要視すべきだ。
これも講師が強調する点です。
我々はこれまで、行動を実体だと勘違いしてきたのではないかと、言うのです。
原理を学んで頭で理解したら、それを行動に移すことを実体だと考えてきたのではないか。
しかし、行動は実体ではない。
行動と実体はまったく別物です。
実体とは、心と体(行動)とが一致した私という存在そのもののことを言うのです。
頭で原理を理解して行動しても、そこに心(「本当にそれをしたい」)が伴っていないとすれば、それは実体となり得ないのです。
信仰基台の目的は、実体(基台)です。
信仰基台の外的な側面は「行動」ですが、その目的は私が心と行動の一致した「実体」になることです。
ところが、これまで我々は信仰基台と実体基台とを別々のもののように切り離して考えた傾向があるので、行動に目を奪われやすいのではないかと思うのです。
その結果、行動によってその人を評価するのです。
親子関係で言えば、親自体が先ず「実体」になることを目指さなければなりません。
「私は本当に愛したくて(=心)、子どもに投入している(=行動)のか」
「私は本当に愛したくて、夫(あるいは妻)に投入しているのか」
そのように自問してみる必要があります。
そうして、子どもの「行動」にではなく、その「心」に目を向けなくてはなりません。
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