後天時代の親学⑩
例えば、子どもが高校を卒業して他地域へ行くようになった時、親子が揃って、その地域の教会を訪問して、
「うちの子をよろしくお願いします」
と頼みます。
そういう時、父母は子どものことを紹介して、
「不足な子どもでして、原理もよく分かっていませんから、よく教育してやってください」
というふうに言うことがあります。
父母にとって、正直な気持ちかもしれません。
あるいは、日本人らしい謙遜の美徳が現れているとも考えられます。
しかし、幾つかの点で気になる言い回しです。
先ず、
「不足な子ども」
というのは、親の観点です。
親から見れば、子どもは人生経験も足らないし、知識も足らないし、分別も足らない。
そう見えるのは確かかもしれませんが、そう見える心理はどんなものなのか。
「私の子どもは私が願う基準で育ってくれていない。私はこの子のことで心配しているし、悩んでいる。満足していない」
言葉としては出しませんが、心の奥にはこういう気持ちが隠れています。
さらに言えば、
「こういう不足な子どもを持ったゆえに、私は不幸だ」
という、一種の被害者意識さえあり得ます。
「私は一生懸命に信仰しているのに、どうして子どもはこんなに不足なの ... ?」
こういう心理に、親自身は気がついていないかも知れません。
親が被害者意識を持つということは、子どもを加害者にしているということです。
被害者意識を持っている限り、親の愛が育ちません。
なぜなら、被害者は加害者を愛せないからです。
一方、不足者呼ばわりされ、加害者に仕立てられた子どもが、気持ち良いとは思えません。
「私を愛しもせず、原理だけ聞かせようとして、それで私に信仰を持てと言うのか」
という反発心が出ても不思議ではありません。
こういう立場に立たされた子どもの反応は、おおまかに2つあり得るでしょう。
一つは、
「自分は親から信用されていない」
と思って、心に栓をして、黙り込む。
心の中の思い、本音を言えなくなります。
もう一つは、反発を表現します。
激しい言葉になったり、怒りになったり、あるいは逆に親を無視したり。
親セミナーでは、こういう状況を次のように分析しました。
黙り込む子であれ、反発する子であれ、その中には本性がある。
本性の願いは、
「愛したい」
「信じたい」
「通じたい」
の3つである。
この願いを果たしたいと思って、本性に栓をして黙り込んだり、逆に栓を開けて反発として表したりする。
しかし、いずれの場合にも、根底には子どもの本性の願いがあるということを、親はよく見極めなければならない。
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