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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

万人の如く知り、僕流に信じる

2015/10/12
愛読作家たち 2
20151012 

僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。

人間には二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君が信ずるところとは違うのです。

僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなります。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。
(『学生との対話』小林秀雄)


知ることと信じることとは違うというのです。
知るのは普遍的に知るが、信じるのは「自分流」しかない。
そして、知ることには責任がないが、信じることには責任が伴う。

信じるには力がいる。
信じる力を失うと、人間は責任を取らなくなる。


私は原理を学びました。
原理は普遍的なものであって、それを知るのは「自分流」ではありません。
しかし、それを信じるのは「自分流」であり、そこから信じる私の責任が生じます。

知ることはさほど難しくありませんが、信じることは容易でない。
「自分流」に信じるには、覚悟が要ります。

「神が私を創造されたというので、私の中には必ず神性がある」
「私の子は神の子というので、私の子ども中には必ず神性がある」
「私に対する神様の願いは、こうである」

それを信じるのは「自分流」であり、また私にはそれを信じる「責任」もあるでしょう。
信じるのなら、どこまでも信じなければならず、見つからなければ探しだす責任があります。

信じたなら、信じたとおりに生きなければならない。
それもまた責任でしょう。

原理はイデオロギーではないので、集団として信じるべきものではありません。
原理を知った人が、それぞれの責任で信じるものです。


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Comments 2

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もみまま

信じる事には、責任が伴いますね。信じて捧げた心情は必ず天がとってくださることも、信じてます。
学生との対話の内容は原理感満載ですね。考えるヒントは、私には難しいです。完読に難航してます。

2015/10/13 (Tue) 22:21

教育部長

もみままさんへ

私もこのところ、『学生との対話』この1冊を繰り返し読んでいます。
本当に原理感満載。
どうしてこんなことを悟れるんだろうかと、その深いところの知恵を自分の心で接触してみたいと思っています。

2015/10/13 (Tue) 23:21