万人の如く知り、僕流に信じる
僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。
人間には二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君が信ずるところとは違うのです。
僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなります。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。
(『学生との対話』小林秀雄)
知ることと信じることとは違うというのです。
知るのは普遍的に知るが、信じるのは「自分流」しかない。
そして、知ることには責任がないが、信じることには責任が伴う。
信じるには力がいる。
信じる力を失うと、人間は責任を取らなくなる。
私は原理を学びました。
原理は普遍的なものであって、それを知るのは「自分流」ではありません。
しかし、それを信じるのは「自分流」であり、そこから信じる私の責任が生じます。
知ることはさほど難しくありませんが、信じることは容易でない。
「自分流」に信じるには、覚悟が要ります。
「神が私を創造されたというので、私の中には必ず神性がある」
「私の子は神の子というので、私の子ども中には必ず神性がある」
「私に対する神様の願いは、こうである」
それを信じるのは「自分流」であり、また私にはそれを信じる「責任」もあるでしょう。
信じるのなら、どこまでも信じなければならず、見つからなければ探しだす責任があります。
信じたなら、信じたとおりに生きなければならない。
それもまた責任でしょう。
原理はイデオロギーではないので、集団として信じるべきものではありません。
原理を知った人が、それぞれの責任で信じるものです。
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