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自分の神性に気づく「相対関係の原理」

kitasendo
20150928 

原理講義を中心とした21日修練会を終えて帰ってきたばかりの青年から電話がありました。

「すごく良かったです!」

開口一番、予想以上の感想でした。
参加の動機は、自主的が50%もなかったので心配していたのです。

「班員に恵まれましたね」

37歳の経験豊富な一世青年の話は面白かった。

同い年の一世青年は、大学に入ってから伝道され、信仰に燃えて歩んできた男で、
「俺は、甘ちゃんの祝福二世は大嫌いなんだ」
と無遠慮に言う。

「『祝福二世にも、それなりの生い立ちの体験があって、言い分もあるんだ』と言っても、最後まで通じないんです。『俺にはそんなの分からない』と言うから、最後まで共感できなかったんだけど、でも突っ込んだ話ができました」

今日はあまり時間がなくて、
「講義はどうだったの? 原理はどうだったの?」
と聞けませんでした。

昨日の記事
原理講義は原理教育ではない
と書いたのですが、この青年は21日間で「原理教育」を受けたのだろうか、受けたとすればどんな教育を受けたのだろうかと考えました。


昨日の記事の続きを書けば、
原理教育の核心は、相手の『神性(本性))』を信じる(愛する)ことだ
ということになると思います。

原理教育の始源は神様にあります。
神様は私の中の悪(堕落性)には一切関わらず、私の神性だけに相対されます。
それゆえに、神様は善であると言えます。

言わば、神様はその愛のゆえに、私の堕落性を丸ごと飲み込まれたのです。

自分自身を振り返ってみれば、
「神様はなぜ私の堕落性を裁かず、これまで許してきてくださったんだろう? ああ、私の神性を信じてくださったんだなあ」
と気づくのです。

私は何が自分の神性かを知らない。
いつ、どうやってそれに気づかというと、神様に愛されてこそ気づくのです。
神様が愛してくださった部分が、私の神性であると分かるのです。

これを
相対関係の原理
と呼んでもよさそうです。

同じ原理は、人間同士の関係でもそのまま適用されます。

例えば、子ども自身は自分の神性がどんなものであるか、よく分かりません。
往々にして、自分の堕落性ばかりが目について、自分で自分が嫌になったりするものです。
しかしそれでも、親は変わらずに子どもを愛する。

すると、子どもは初めて、
「ああ、ぼくにも親が愛してくれる神性があるんだなあ」
と悟るのです。

アベルとカインの関係も、同じように考えることができます。

カインの中には堕落性と神性とが混ざり合って存在しています。
カイン自身には、自分の神性が何なのか、よく分かりません。

それに対して、アベルの理想像は、カインの中の神性が「実体化」した姿です。

カインがアベルを見た時、
「ああ、これが自分の中の神性なんだ」
と分かるようなアベル。

アベルはカインにとって「鏡」の役割をするのです。
アベルはこのような「鏡」の役割を通してカインを救い、育てることができます。
しかしそのためには、アベルはまず自分の神性に気づく必要があります。

ここに「原理教育」の要諦があるような気がします。


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Admin:kitasendo