自分の神性に気づく「相対関係の原理」
原理講義を中心とした21日修練会を終えて帰ってきたばかりの青年から電話がありました。
「すごく良かったです!」
開口一番、予想以上の感想でした。
参加の動機は、自主的が50%もなかったので心配していたのです。
「班員に恵まれましたね」
37歳の経験豊富な一世青年の話は面白かった。
同い年の一世青年は、大学に入ってから伝道され、信仰に燃えて歩んできた男で、
「俺は、甘ちゃんの祝福二世は大嫌いなんだ」
と無遠慮に言う。
「『祝福二世にも、それなりの生い立ちの体験があって、言い分もあるんだ』と言っても、最後まで通じないんです。『俺にはそんなの分からない』と言うから、最後まで共感できなかったんだけど、でも突っ込んだ話ができました」
今日はあまり時間がなくて、
「講義はどうだったの? 原理はどうだったの?」
と聞けませんでした。
昨日の記事で
「原理講義は原理教育ではない」
と書いたのですが、この青年は21日間で「原理教育」を受けたのだろうか、受けたとすればどんな教育を受けたのだろうかと考えました。
昨日の記事の続きを書けば、
「原理教育の核心は、相手の『神性(本性))』を信じる(愛する)ことだ」
ということになると思います。
原理教育の始源は神様にあります。
神様は私の中の悪(堕落性)には一切関わらず、私の神性だけに相対されます。
それゆえに、神様は善であると言えます。
言わば、神様はその愛のゆえに、私の堕落性を丸ごと飲み込まれたのです。
自分自身を振り返ってみれば、
「神様はなぜ私の堕落性を裁かず、これまで許してきてくださったんだろう? ああ、私の神性を信じてくださったんだなあ」
と気づくのです。
私は何が自分の神性かを知らない。
いつ、どうやってそれに気づかというと、神様に愛されてこそ気づくのです。
神様が愛してくださった部分が、私の神性であると分かるのです。
これを
「相対関係の原理」
と呼んでもよさそうです。
同じ原理は、人間同士の関係でもそのまま適用されます。
例えば、子ども自身は自分の神性がどんなものであるか、よく分かりません。
往々にして、自分の堕落性ばかりが目について、自分で自分が嫌になったりするものです。
しかしそれでも、親は変わらずに子どもを愛する。
すると、子どもは初めて、
「ああ、ぼくにも親が愛してくれる神性があるんだなあ」
と悟るのです。
アベルとカインの関係も、同じように考えることができます。
カインの中には堕落性と神性とが混ざり合って存在しています。
カイン自身には、自分の神性が何なのか、よく分かりません。
それに対して、アベルの理想像は、カインの中の神性が「実体化」した姿です。
カインがアベルを見た時、
「ああ、これが自分の中の神性なんだ」
と分かるようなアベル。
アベルはカインにとって「鏡」の役割をするのです。
アベルはこのような「鏡」の役割を通してカインを救い、育てることができます。
しかしそのためには、アベルはまず自分の神性に気づく必要があります。
ここに「原理教育」の要諦があるような気がします。
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