原理教育とは何か
最近聞いた講義から考えたことを書いてみます。
「原理教育とは何か?」
ということです。
原理講義を原理教育と考えると、
「あなたはまだまだ原理が分かってないわね。次の修練会に出てきなさい」
と原理修練会を勧めることになります。
すると、
「ええ~。もう前に一度、修練会に出たじゃないか」
と気が進まない。
同じ原理を何度も聞いて意味があるのかと訝るのです。
一方、原理講義を勧めるほうは、
「この人が原理的な生活をできないのは、原理が分かっていないからだ」
と思っています。
この場合、原理とは、教える者が教えられる者へ「投げかける」ものです。
投げかけるとは、原理を「知識」あるいは「価値観」として伝えるということです。
投げかけておいて、
「原理を教えたんだから、分かったでしょ。原理のとおりにやってみなさい」
と実践を要求する。
言われたほうは、やってみる。
しかし、なかなか思うようにはいかない。
「うまくいかない」
と報告すると、
「あなたはまだ原理がよく分かっていないようね」
となって、反省を求められ、もう一度原理を学ぶように勧められる。
原理講義が原理教育でしょうか。
どうも、そうではないようです。
原理教育の元祖が文先生であることは言うまでもありませんが、先生はどのように原理教育をしてこられたのでしょうか。
例えば、文先生の自叙伝『平和を愛する世界人として』の中に、こんな一節があります。
私が伝えたい新しいみ言葉を誰かが聞きに来るだろうと待ったのです。ある時は、1日中門の外を眺めて、人を懐かしく思ったりもしました。
そうやってじっと待っていると、やがて篤実な信仰心を持った人たちが私を訪ねてくるようになりました。その人たちを迎えて、私は夜通し新しいみ言葉を伝えました。
文先生の開拓期の証です。
先生の原理教育は、夜通しみ言葉を伝えたというところだけにあるのではありません。
その前に、幾日も幾日も、誰か訪ねて来ないかと1日中外を眺めながら、人を懐かしく思った。
そこからすでに、文先生の原理教育は始まっているように思えます。
原理を与えて(投げかけて、伝えて)人が育つのではない。
原理を与えてくれる人を通して、人が育つ。
原理を投げかけるのが重要ではなく、誰が原理を投げかけるかが重要だということです。
例えば、健康食品があります。
それを買ってもらおうとするときに、
「これには、これこれこういう有効成分が含まれていますよ。いいですよ。ただ、私も飲んでいますが、私にはあまり効かないようです」
と言えば、相手は買う気になるでしょうか。
こういう場合、人は有効成分を見ません。
それを飲んでいる人が、実際どれくらい健康になっているかを見るのです。
原理教育とは結局、
「私がその原理で育っている。原理的で喜びのある生活をしている」
ということではないでしょうか。
これをもう少し考えてみます。
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