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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

後天時代の親学⑥

2015/09/08
研修日記 0
20150908 

前回の続きです。

第三の場合は、夫婦がともに信仰を持ち、しかも夫婦仲が良くて、2人が一致した愛で子どもを愛しながら育てている家庭です。

子どもであれ大人であれ、信仰そのものを好きな人は稀有でしょう。
一方、愛を嫌いな人はいません。

このような父母のもとで育つ子どもは、
「お父さんとお母さんの愛はいいなあ」
と体感します。

そして、
「どうして、お父さんたちはこんなふうに仲が良くて、愛もあるんだろう?」
と考えると、どう考えても、それは統一教会の信仰から来ていると思える。

そうすると、
「信仰というのは悪くないな」
と思うようになり、さらには、その信仰の向こうに原理があり、真の父母や神様がおられることを自然と見つけるようになるのです。

「愛」から「信仰」へという流れで信仰を持つようになります。


前回の記事で書いたような第一の場合は、本性が惹かれるような実体の愛がなく、ただ情的に近い母親の価値観だけをある程度受け継ぐ可能性があるに過ぎません。

また第二の場合は、母親の単独の実体から本性に刺激を受けます。

そのような場合、子どもは「愛」よりも「善」とか「真理」とかを強調することによって自分を安定させていくようになります。

「お父様(文先生)は原理からすると、絶対にメシヤだ」
という感じのスタンスです。

それに対して、父母の愛を体感しながら育った子どもは、信仰をもう少し自然なものと感じます。

「お父様って、メシヤなんだってね。良い人だよね」
というような、一見危うい感じですが、自然なスタンスです。


一世は「信仰」から「愛」へという方向でやってきたので、第一、第二の場合の二世と似ています。

それで、子どもに対しても、
「あなた、ちゃんとした信仰を持つためには修練会に行って来なさい。み言葉で変わりなさい。私も修練会で変わったのよ」
というふうな態度になりがちです。

この態度を有り体に表現すれば、
「私に愛はないから、工場で修理されてきなさい」
ということです。

これは、み言葉を盾に取った親の堕落性から出た「子どもへの要求」なのです。

すると子どものほうは、その要求を敏感に感じ取りますから、
「修練会なんかで俺を変えようというのか!」
と、心の中で反発するようになります。


信仰の大先輩である李耀翰先生がよく
「家庭では絶対にみ言葉を語るな」
と諭しておられたのも、この辺りと関連するもののように思われます。

(この記事も「親セミナー」を参考にしています)


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