ごみ屋敷の信仰
つい数週間前までゴミ屋敷だったというお宅の家庭集会に招かれて、少し講話をさせてもらいました。
私が伺った時のその家は、「Before-After」のいわば After のほうだけですから、Before がどれほどのものだったか分かりません。
ただ、After の家は本当にきれいに片づいていました。
その家の家族がどうも片付け下手だったのでしょう、年を経るほどにゴミは溜まっていき、もはや自力ではどうしようもない状態になった。
そこへ教会のメンバーが入れ替わり立ち代りで訪ねては、たまった不要なゴミを廃棄したのだそうです。
正面の庭に鬱蒼として茂り、家を暗くしていた木を何本も切り倒し、変色したり破れたりしていた障子を張り直しました。
片づいてみると、元々広い家。
集まって集会をするには打ってつけの家です。
私が最初に招き入れられたのは、居間兼祈祷室のような部屋でした。
棚のガラス戸の中には教会の本が綺麗に並べられ、若夫婦と小さな子どもたちの家族写真が真ん中に飾られています。
棚の上にはご父母様のお写真、天聖教、原理講論。
決して高級な棚ではありませんが、小奇麗にまとめられ、気持ちのよい祭壇となっていました。
それを見て、正直なところ、
「私の家の祭壇よりきれいで、精誠がこもっているな」
と感じました。
ゴミ屋敷の住人だったという人でありながら、み言葉を大切にしていることが感じられたのです。
先日の記事で、
「無形の信仰は、有形の信仰生活の形、愛として現れる」
と書いたことがありますが、
「まさに、こういうことだな」
という気がしました。
人が本当に神様を信じ大切にしているなら、それはまず生活環境の美しさ、整理整頓として現れる。
「私は神様を信じている」
と主張しても、その人の周囲が乱雑であれば、その言葉を俄には信じることができないでしょう。
それゆえ、信仰はまず、
① 生活環境の美しさとして現れる。
その次に、
② 言葉の美しさとして現れる。
そしてさらに、
③ 生活態度や愛として現れる。
自分の家でもないゴミ屋敷に何度も足を運んでゴミの山を片づけた教会の人たちは、その信仰を③としてすでに表した人たちだとも言えます。
そして近所の人たちは、その教会の人たちの行動(目に見える信仰の形)を通して、目に見えない信仰を感じることができただろうと思います。
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