私はもっと孝行できるはずだ
今年秋の中和文化祭に向けて、2回目の打ち合わせをした時。
主人公となる中高生が10人、青年FEや成和部長が6人集まりました。
出し物をどうするか話し合う内、思いがけなく中高生たちの証を聞く場面になったのです。
「孝とは何だろう? それをどう表現したら、一般の聴衆に我々の思いが届くだろう?」
という問いかけから、
「自分たちはどこでどんなふうに孝を感じたのか?」
という話になったのです。
中高生10人が話した中には、「孝」そのものとはちょっとズレていた部分もあります。
それでも、二世の本音(本性)がちょっと出たな、という感じがしました。
「自分はどこで、どんなふうに父母の愛を感じたか?」
ということについて、1人1人が順番に話し始めたのです。
1人1人の言葉から、彼らの心の中を覗きこむような気がしました。
ある女の子の話は、こんなふうです。
お父さんは、もう120日もほとんど毎朝、聖地祈祷に行っている。
「頑張ってるなあ。でも、お父さん、疲れてるな」
と思う。
「ご父母様に何を捧げられるか。お父さんなりに一生懸命なんだ」
と思う。
それで私は、大したことは出来ないけど、朝ごはんに味噌汁をよそってあげたり、お茶を入れてあげたりする。
別の男の子は、ちょっと苦しそうにこんな話をしました。
親はいつも、僕を愛してくれている .... んだと思う。
でも、愛してくれていることが、当たり前というか、僕はそれを当たり前のように思ってしまって、その愛を、ふだん、感じれていないと思う。
感じれていないけど、親は愛してくれている .... はずだと思う。
彼の話は、ある意味、私には身につまされました。
親は僕を愛してくれているはずなのに、僕はそれをよく感じられていない。
だから、感謝できない。
本当はもっと親に感謝したいのに、僕がもっと親の愛を感じられれば、もっと感謝できるはずなのに、それができていない。
そんなもどかしい彼の気持ちを感じたのです。
もう1人の女の子。
普段は、下の子の方に親の愛がもっと流れているような気がする。
私が頑張っても、よく認めてもらえないような気もして。
でも、ある時、お母さんが祈っているのを、隠れて盗み聞きした時、お母さんは私たち兄弟1人1人の名前をあげて祈っていた。
「ああ、やっぱりお母さんは、子どもたちをみんな愛そうとしてくれているんだ」
と思った。
親は親で、子どもを愛そうと、親なりに努力はしている。
しかし、子どもたちも一生懸命だと思います。
親の愛を探すことに、一生懸命です。
「親の愛を探せれば探せるほど、私は親にもっと感謝できる、孝行できるはずだ」
そんなふうな、切実な思いが伝わってくるようでした。
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