朝日に匂ふ山桜花
先日ご紹介した『学生との対話』から、もう少し小林秀雄の世界を味わってみたいと思います。
小林はその晩年、江戸時代の大学者、本居宣長に没頭しました。
宣長を単なる学者、あるいは歴史家と見做すことを、小林は良しとしません。
今の我々が「学者」「歴史家」という呼称からイメージするものと宣長の実像とは、ずいぶん違っていたというのが小林の認識です。
宣長の詠んだ有名な歌があります。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
この歌は特段むつかしいところはないように見えて、実はなかなかむずかしい歌だと、小林は言います。
宣長は30年余りをかけて『古事記伝』を書き上げますが、この歌はいわばその集大成だといってもいいようです。
まず、「山桜」。
「山桜がどんな桜か、多分君たちは知らないだろう」
と小林は言います。
なぜなら、現代の日本で見る桜の大半は染井吉野であって、小林によればそれは本当の桜ではない。
桜の中でも一番低級な桜だというのです。
宣長は山桜をこよなく愛しました。
若い頃から庭に桜を植えていましたが、
「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」
と遺言を書いているほどです。
多分、染井吉野では、
「朝日に匂ふ」
という言葉は出てこない。
「匂ふ」とはもともと「色が染まる」という意味です。
旅行く人が旅寝をすると、萩の色が袖に染まる。
それを「萩が匂う」というのです。
それから「照り輝く」という意味にもなるし、「香に匂う」という香り、匂いの意味にもなるのです。
「艶っぽさ」さえあります。
「匂ふ」には、視覚もあるし、嗅覚もある、いかにも日本人らしい、奥行きのある言葉です。
朝日が山桜にさすと、いかにも「匂ふ」という感じになる。
染井吉野では、その感じが出ないというのが小林の感覚なのでしょう。
昭和の世にも、桜をこよなく愛した人がいたことを小林は知っています。
その人は何とかして一流の桜を日本に普及させようと努力したが、とうとう染井吉野の勢いには敵わなかった。
そういう話も紹介しています。
さて、次は「大和心」です。
今でこそ「大和魂」などといえば、勇ましい、男性的な心意気のような感じがします。
しかしその起源は平安朝の女性たちにあるのです。
『源氏物語』に最初に出てきます。
その当時、男たちが重視していたのは「才(ざえ)」です。
「才」とは学問のことで、それは漢字とともに大陸から入ってきた学問です。
それに対して、女性たちが「大和心」と言ったのです。
「大和心」というのは、小難しい学問の知識ではなく、もっと「生活的な知恵」を意味します。
その知恵を弁えることを、
「もののあわれを知る」
と言ったのです。
『今昔物語』にこんな話が出てきます。
ある博士の家に泥棒が入った。
彼は床下に隠れて覗いていたのですが、あまりに口惜しいので、泥棒に向かって思わず、
「貴様らの顔は全部見た。後で役人に知らせるから覚えていろ」
と叫んだ。
そうしたら、泥棒たちは引き返して、博士を殺して遁走した。
その話に対して、作者はこうコメントしているのです。
「才はめでたかりけれども、つゆ大和魂なかりける者にて、かかる心幼きことをいひて死ぬるなり」
学識はあったが「大和心」がないために、愚かなことをして殺されたというのです。
ところが、この「大和心」という言葉はやがて死語となり、江戸時代になって、宣長が正しい意味で復活させたと小林は言います。
宣長は古代の書物「古事記」を深く研究したのですが、昔を今に引き寄せて調べるのではない。
その当時に戻っていって、当時の人の心でその書物を読もうとする。
それが宣長の歴史学です。
小林も歴史というものをそのように捉えています。
歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。... だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。
こういうさまざまに深いものが、あのわずか31文字の歌の中に秘められている。
それを開いて見せてくれるのが、小林のこの上ない魅力です。
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