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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

もしかして、私も病気かもしれない

2015/06/19
生活日記 4
                                                   20150619 

いつまでたっても、
「精神」
というものについて考えると、よく分かりません。

精神というものは、一体どんな構造になっているのか。
どうしてあれほどに複雑で奥妙な働きをするのか。

今日、ある婦人と話していると、その方がこんな話をするのです。

学校の先生が入学間もない生徒たちに、
「始業のベルが鳴ったら、先生がすぐに来て授業を始めるのですから、ベルが鳴ったらすぐ席に就きなさい」
と指導する。

すると初めのうちは、先生がベルと同時にすぐに教室に来るものと思うから、生徒たちはベルが鳴るとさっと席に就いている。
ところが、実際には、ベルが鳴っても先生はすぐにやってこないことが多いのです。

すると、生徒たちはだんだんと要領をわきまえてきて、ベルが鳴ってもすぐには席に戻らなくなる。
友だちと話したり遊びまわったりしながら、うまい角度から先生の気配を感じたら、さっと席に就く。

そういう要領を、全く自然に身につけるようになるのです。

これは、人の言葉と実際の現実の動きの間は必ずしも一致しない、往々にして乖離があるということを悟るわけです。
そして、支障がない程度にその乖離をうまく弄ぶ。

これは何も特別に緻密な計算をして行う行動ではなく、いつの間にかできる行動なのです。

ところがここに、一人だけ一風変わった生徒がいます。
彼は最初に先生が言った言葉から一寸も離れないのです。

先生が、
「ベルが鳴ったらすぐに来る。だからすぐ席に就いておきなさい」
と言ったのだから、きっとその通りだと思い込むのです。

実際先生が少し遅れてくるのは、問題ではありません。
先生の言葉が絶対基準なのです。

それで、他の生徒たちがベルが鳴っても遊びまわっているのが、我慢ならない。
「先生がベルと同時に席に就けと言ったのに、なぜこいつらは席に就かないんだ」
という批判心に身悶えするのです。

そこで、
「◯◯君と△△ちゃんは、ベルが鳴っても遊んでいました」
と先生に報告する。

クラスメートは、当然眉をひそめます。
そして、彼と彼以外のクラスメートとの間には、溝が生じるようになるのです。

彼のような人を、最近では、
「アスペルガー症候群」
と呼んだりもします。

それは一種の精神的な障害であり、病気であると分類されます。


私はこんな話を聞きながら、
「どうして普通の子どもたちは、こういう複雑なことをいとも自然にやってのけるのだろう」
と、改めて人間の精神のハイスペックなことに思いをいたしました。

こういう機能が十分に働かないのを、能力の問題ではなく障害だと見做すのが現代の知見なのでしょう。

と同時に、
「私は自分のことを正常だと思い込んでいるが、どこまでが正常で、どこからが病気だと、誰がどうやって線を引けるんだろう?」
と考えました。

そしてふと、
「もしかしたら、私も病気なのかも知れない」
という思いもよぎりました。

話に出てきた生徒には、かなり強い「拘(こだわ)り」があるのです。

「先生が最初に言った言葉は絶対だ」

そう思い込むので、その基準から外れる行動はすべて「許せない」行動になるのです。
他の生徒たちには当たり前な、言葉と現実のファジーな関係を本能的に理解できないのです。

ある一つの考えが頭の中に固定されると、次に生じてくる新しい考えを受け入れることが極めて難しい。
普通の人間がほとんど瞬時にやってしまうことを、その人は1年かけても2年かけても難しいのです。

ところが、私にも彼とはまた違った厄介な「拘り」がいくつもあるような気がする。

それが、
「自分ももしかして病気かもしれない」
と思った理由のようです。

原理を学んでみると、
「あなたたちはみんな病気です。堕落性という精神障害を持っています」
と言われたようなものです。

しかしその時、
「私は堕落性という病気だから仕方ない」
というふうに考えることを許されません。

「これはどんなことをしてでも、必ず克服して治さなければならない」
という処方箋をもらうのです。

しかし、この病気を治すことは容易ではありません。
容易に変えることのできない「拘り」がいくつもあり、5年たっても10年たっても、目覚ましい改善の兆しがなかなかないのです。

神様は本来、人間の精神をうまく造られたのだろうと思います。
「拘り」に縛られることなく、どんな状況にも絶対の基準を持ちながら、ファジーにも対応できる。
そんな精神が、堕落によって、どこがどう壊れたのだろう。

容易に治せる病気ではないのですが、少なくとも、
「病気だから仕方ない」
と諦めることはできません。


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Comments 4

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花火と案

私ならば、先生に自らの言葉に責任を持って授業を進めてください。
と伝えます。何故なら決めた方が守らないから伝えても効果がないのですから!
何事も規律と規範は先生から学ぶ物です。
因みに私の子供たちはその点しっかりと指摘しますよ❗
守らないと批判的なのは自分が葛藤しているからで成長段階でしょう‼
仏教では菩薩と言うそうですが
より次元の高い歩みをされているから葛藤も多くなるでしょうね
菩薩は間もなく悟りが来ると思います

2015/06/20 (Sat) 12:49

教育部長

花火と案さんへ

本当にもっともなご指摘ですね。
このように考えると、アスペルガーと言われる子どものほうがまともで、先生や他の生徒たちのほうが障害者だとも思われてきます。
この視点のほうがより本質的な問題を掘り起こすことができそうです。
私も勉強になりました。
ありがとうございます。

2015/06/20 (Sat) 20:19

はんとも

No title

とある地域で障害児を持つ親の会「天宝会」を運営しています。
記事の子は、普通クラスに入れているのでしたら程度としては軽いほうかもしれませんが、この辺の線引きはむつかしいものですね。
ただ、発達障害を持っていると往々にして人間関係に苦労してしまいがちだと思います。
この記事では授業の始業時間が題材になっていますが、実生活では突然のスケジュール変更についていけないという話は実際あり、私の知人の子供の場合は、興奮して大変なことになってしまいます。
ところが、予定が変わる、時間が前後するなどということは日常的に経験することですから、その時にどう受け止めるかが、当事者である自分自身にかかってくる問題だと思います。その都度問題視し、指摘したとしたら・・・
しかし、本人としては間違っていませんし、それを非難されたとしても理解できるかどうかはわかりません。
その部分だけみれば、むしろ正論かもしれません。
しかし、社会生活に支障をきたすとすれば問題であり、一つの分かれ道なのかなと考えています。時に深刻な問題にも発展しかねませんし。
他人がどう思うかがわかりにくいというのも、発達障害の特性の一つでありますから、コミュニケーションに課題が出やすいでしょうね。
兎にも角にも、まずはどうすべきか、考えさせてもよさそうに思います。

2015/06/26 (Fri) 00:26

教育部長

はんともさんへ

私自身もこの分野についてはかなりの無知で、アスペルガーがどんなものかをある程度知ったのは、数年前のことです。
実際、そういう子と接してみると、自分の感覚と違うので戸惑うことが多いですね。

2015/06/27 (Sat) 20:12