ぼくはおばあちゃん擁護派だよ
先日、半年ぶりに息子が帰ってきて、10日ほど家で過ごしました。
10日間の間に、40年間伸び続けて電線に枝が届きそうになった大きな柳の枝を全部切り落とした後、それを題材にした短編小説を一つ書いて、また静岡に帰って行きました。
その小説の中に、私らしい人がちょっとだけ登場します。
実に僕と似てい ない。台風みたいな人だ。
それに勉強についてとやかく言わないのがうち父親である。
いくら僕が時間を持て余していても、勉強すべしと叱りつけたことは一切ない。するもしないもお前の自由だと、無言のうちに一切の責任を僕自身に放任してくる。
我が父親ながら、器の大きさを感じる。
「台風みないな」
というのはおかしな表現ですが、後半については、
「そんなふうに見ていたんだな」
と改めて思います。
なかなか客観的に見ています。
我が家では数カ月前から、コーヒーをインスタントではなくドリップで淹れて飲むようになりました。
大抵は私が淹れて、母と一緒に飲むのですが、時々母に頼むことがあります。
すると母は、すぐにヤカンでお湯を沸かして、インスタントを入れようとするのです。
新しいことをもうあまり覚えられないようです。
息子が帰っている間にも、そういうことが一度か二度ありました。
その時、私もちょっと呆れて、つい、
「おばあちゃん、いつも間違うね。インスタントじゃなく、コーヒーメーカーで淹れてよ。味が違うよ」
と言ってしまったのです。
するとおばあちゃんが入れたインスタントコーヒーをすすりながら、息子がすかさずこう言うのです。
「ぼくは、どっちかというとインスタントが好きなんだ。それに、お父さんとおばあちゃんが対立した場合は、基本的にぼくはおばあちゃんの側につくよ」
それを聞いた瞬間、
「ああ、やっぱり私はまだ修行が足りないな」
と悟りました。
「おばあちゃん、いつも間違うね」
という私の言葉の中には、致死量でないにせよ、毒が含まれていたな、と気づいたのです。
いつも気をつけているつもりでした。
私の母は実に気さくで、からかいやすいタイプなので、私もつい言いすぎてしまうことがあるのです。
それを息子は敏感に感じ取ったのに違いありません。
「それはお父さんが言い過ぎだ。ぼくはおばあちゃんを擁護する」
と、私の非を優しく、かつ、きっぱりと指摘してくれたのです。
私は決して、
「器の大きな」
男ではないのです。
10日あまりの滞在を終えて、新幹線の駅まで送る道々、息子がまた、
「大きくなってみて、初めておばあちゃんの有り難み、偉大さがよく分かってくるね」
としみじみ言います。
「そうだろうね。ほんとにおばあちゃんはよくやってくれるよね」
と答えた後、
「親の有り難みは、まだ分からないだろうね?」
と振ってみました。
すると息子は、半分からかうような口調で、
「うん、それはまだよく分からない」
大学生の息子にいろいろ教えられ、まだまだ修業が必要だと悟らされた10日間でした。
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