与えるときは、切ない
韓国人女性と祝福結婚をして韓国で暮らす男性講師が日韓の文化比較をしていて、とても面白く聞きました。
チョー・ヨンピルの歌に、
受けるときは、夢のようだが、
与えるときは、切ない
という歌詞がある。
何かをもらうときには嬉しいのですから、「夢のようだ」というのは分かる。
しかし、上げるときに「切ない」というのはどういうことか。
「与えても、それにふさわしいお返しがあるだろうか? それを考えると、切ない」
そういうことだろうかと、講師は本気で考えていたそうです。
ところが、それを韓国人妻に話すと、
「あなた、何言ってるのよ!」
と呆れられたのです。
「与えるときに、もっと上げたいのに上げられない。だから、切ないのよ」
日本人の夫には思いつかない発想でした。
「ほんとうに、そうかな?」
と思って、知り合いの韓国人男性に聞いてみました。
すると、彼の答えも全く同じだったのです。
それで、韓国人は本当にこんなふうに受け取っているのかと、小学生にも聞いてみました。
すると、その子もまたまったく同じ答えで、
「何か他の意味があるの?」
と言うのです。
情によって、与えることに喜びを感じる韓国人。
それに対して、日本人にも同様の心性がないわけではないとしても、もらったら返すことを考える。
いかに返すかが、日本人にとってはかなり重要なのです。
このような違いをもって、
「韓国人は主体的、日本人は対象的」
と、ステレオタイプ的に言えなくもありませんが、この講師はもう少し複合的な分析もします。
西洋の中世社会が神の摂理に適わなくなった時、神はその社会をカイン(文芸復興)とアベル(宗教改革)とに分立させました。
それら2つの道がそれぞれ「世界平和」を求めるとすれば、カインは普遍的な理性を重んじて、
「ルールや秩序を守ることで世界は平和になる」
と考える。
一方、アベルは神の愛のもとの平等を重んじて、
「愛を分かち合うことで世界は平和になる」
と考えるのです。
もともとの、島国、半島国家という気質も合わさって、日本は前者となり、韓国は後者の性質を強く持つようになりました。
それでしばしば、日本人が韓国人を見ると、
「どうしてルールを守らないんだ」
と反発を感じ、反対に韓国人が日本人を見ると、
「どうして情が薄いんだ」
と物足りなく感じるという現象が起こるのです。
今から14年前の2001年、東京の新大久保駅で人身事故が起きました。
線路に落ちた人を救おうとして、韓国人留学生と日本人男性が3人とも列車に轢かれて亡くなるという悲惨な事故でした。
その時、マスコミが日韓双方の父母にインタビューをしたのです。
日本人の父母は、
「せっかく助けようとして3人とも亡くなったのは残念です。せめて線路に落ちた人だけでも助かっていれば、息子の死にもせめてもの救いがあったでしょうに」
とコメント。
それに対して、韓国人の父母は、
「息子は人間として当然のことをしたまでです。息子を誇りに思います」
と答えたのです。
このような感じ方の違いは、どこから来るのでしょうか。
これだけをもって日韓両国の違いを論じるには無理があるでしょうが、日本人父母にとっては、人間の「生命」に普遍的価値があるのです。
だから、
「一人でも生命が助かれば、あの犠牲的行為にも価値があったのに」
という気持ちになったのです。
それに対して、韓国人父母にとって重要なのは、自分の生命を賭してでも、
「人として何をなすか」
にあったのです。
このような分析によって、韓国人と日本人の優劣を論じたいのではありません。
私たちの中には「文芸復興」的な理性を重んじる合理主義と、「宗教改革」的な愛の関係を重んじる非合理主義との両方の性質が混ざり合っていると思います。
自分自身がどちらに傾いているかと省察してみて、自分に足りないものを反対の人から学んでみる。
そうすることにおいて、韓国人と日本人とは「似て非なる」面白い隣人だと改めて思うのです。
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