統一教会にはちょっと訪ねて行きにくい
本日、教区本部で行われた集会で印象に残ったことの一つです。
「カソリック教会はいいけれど、統一教会にはちょっと訪ねて行きにくい」
という霊言があったそうです。
このように仰ったのは、聖母マリア様です。
ある教会でマリア様に対して特別の精誠条件を立てたところ、霊的に訪ねて来られて、正直な心中を明かされました。
カソリック教会では、マリア様はキリストの聖母であり、同時に教会全体の母親のような立場でもあります。
信徒たちはマリア様をとても慕い、敬っています。
そういう教会にはマリア様も訪ねて行きやすいのです。
人の心としては、尤もなことだと納得ができます。
それに対して、統一教会では、
「マリアはメシヤの母として失敗した。すべての責任を果たすことができなかった」
と見ています。
天使からの啓示によって命がけの冒険をしてイエス様を懐胎したのですが、誕生したイエス様をメシヤとして侍ることができなかった。
特に、イエス様の聖婚を準備できなかった。
そのように言われる教会に訪ねて行って、喜んで助けてあげることができるか。
目に言えない霊人だとはいえ、やはり心苦しいだろうと思います。
原理講論を読むと、マリア様以上に洗礼ヨハネの失敗が極めて大きく取り上げられています。
彼の不信こそは、イエス様の十字架の主要な要因となったとありますから、ヨハネとしてはとても統一教会には寄りつけないでしょう。
この見解も、伝統的なキリスト教徒と全く反対です。
考えてみると、復帰摂理で取り上げられるほとんどすべての人は失敗者として取り上げられます。
アダムは堕落した。
ノアは120年頑張ったが、息子に信仰を引き継げなかった。
アブラハムも、あの小さな鳩を裂かず、後代に大きな禍根を残した。
モーセはその血気によって、イエス様がサタンに試練される遠因を作った。
そして、極めつけが洗礼ヨハネです。
原理講論のこのような見解は、もちろん正当なものと考えています。
講義も講論に沿ってします。
しかし、マリア様のお話を聞いてみると、
「あまりに思慮が浅く、不用意だったのではないか」
とも思わされます。
原理講論の意図は、批判でも指弾でもない。
ところが、我々が講論の内容をそのまま言ってしまうと、批判や指弾のようになってしまう。
原理講論と我々とでは、その立ち位置が違うのではないかという気がします。
原理講論の意図は、「蕩減復帰」にあるのです。
その実質的な筆者である文先生によれば、
「原理講論の内容は、先生の戦いの記録である」
というのです。
アダムの失敗も、ノアやアブラハム、モーセの失敗も、洗礼ヨハネの失敗も、ひいてはイエス様の使命未達成も、すべては文先生にとって、自らが蕩減復帰すべき内容です。
彼らの失敗が人ごとではないのです。
しかし同じ内容を我々が言ってしまうと、人ごとになってしまいやすい。
責任を持てないのです。
そうすると、単なる批判になってしまうのです。
知らず知らずのうちに、歴史的な方々を排斥し、敵にさえしてしまっている可能性があります。
どうすればいいのでしょうか。
マリア様は、確かにすべての責任を完璧に果たすことはできなかったかも知れない。
しかし、あの命がけの信仰がなかったらイエス様はこの世に誕生できなかった。
我々一般の信仰基準をはるかに凌ぐ信仰があったことは間違いないことです。
ノアもアブラハムもモーセも、そして洗礼ヨハネも、みなそうでしょう。
このように名前を呼び捨てにできる我々の立場でもありません。
歴史的にユダヤ教やキリスト教で評価されてきた以上の価値を、我々は正しく彼らの上に賦与しなければなりません。
原理講論には、例えば、アブラハムが象徴献祭に失敗しても、もう一度献祭の機会を得たのは、アベルとノアが象徴献祭に成功した「歴史的な心情の基台」があったからであると明記されています。
アベルにもノアにも、失敗はありながらも、信仰基台を立てたという功績は歴史の中に埋没していないのです。
それが神様の心情なのでしょう。
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