先日、全国から各教会の成和学生の会長が集まって研修が行われました。
その中で行われたディスカッションのレポートを送っていただきましたので、印象を書いてみようと思います。
毎年秋には全国で中和文化祭が開催され、地区、東西日本、そして全国へと3段階を勝ち抜いていくシステムになっています。
ここ数年はそのテーマの中に、
「
忠孝」
という言葉が入っています。
これは最近の日本ではあまり使われない、ちょっと特殊な言葉です。
教会の中でこの言葉を使えば、無形なる天の父母様(神様)、実体であられる真の父母様への純粋で一途な心的姿勢がイメージされます。
しかし、そのようなテーマで文化祭の出し物に取り組んできた成和学生たちが、今回のディスカッションでこんなことを発言しているのです。
- 一般人が二世になりたい!と思えるようなものにする。
- 真の父母様に捧げるだけでなく、観客に対して与える心情。
- 二世圏の成和学生のためにもなり、一般の人たちのためにもなる中和文化祭。
- 「二世だから」などの二世のアイデンティティーを強調するのではなく、「愛する」ということを実践するにおいての奮闘を描く。
- 学校生活で為に生きて尊敬される人になる。
- 「二世」という二世にしか分からないワードを使わない。
- 今まで教会目線でやってきた。友だちは教会のことをあまり知らない。
…………
このような学生たちの発言を総括して、成和学生部長が次のようにまとめています。
中和文化祭の発表を見に来た人に変化が起こる中和文化祭にしたい。二世らしくない人が二世らしくなる、二世でない人が二世らしくなる、このような変化を起こしていくという目的を持って中和文化祭を創っていくというような内容の議論を聞いて、とても良い観点だと感じた。
このようなことを考えると、中和文化祭の採点基準が変わってくる。どのように忠孝を表現するのか、どのように心情文化を発信したのかを発表し合う場に中和文化祭はなっていくだろう。
学生たちの発言を読むと、
「二世たちは、その本心において、『神様へ向いていた目をもっと外にも向けないといけない』という疼きを感じている」
という印象を受けました。
これはとても良いことだと思います。
二世だけではなく、統一運動全体に対して重要な発信だという気もします。
ただここで、取り上げたい言葉があります。
総括で使っている
「
二世らしい」
という言葉です。
学生会長になるほどの二世たちは、自分たちの二世としてのアイデンティティを強く意識しているでしょう。
彼ら自身が考える「二世らしい」とはどんな二世なのでしょうか。
「二世らしくない人が二世らしくなる」
「二世でない人が二世らしくなる」
このように言う時、二世たちは、
「無形なる天の父母様、実体であられる真の父母様に最高の『忠孝』を捧げようとする二世」
「天に向かって『神様~』と大声で叫ぶ二世」
という自らの姿をイメージしてきたと思います。
「二世らしくない」
とは、そんなふうではない人たちのことです。
実際、そんなふうでない二世が多いのも現実です。
そんな人たちを「天に向かって忠孝と叫ぶ」人たちにしたい。
一見すると、そんなふうに討論し合ったように思われます。
しかし、その発言を聞くと、そうではない。
自分たちのこれまでの「二世」のイメージではダメではないか、もっと変わらないとダメではないか。
これまで二世たちは、いわば
「神様~」
と大声で呼ぶことで「忠孝」を表現しようとしてきたのですが、それだけでは神様は喜ばれないということを感じるようになってきた。
天に向かって叫ぶだけではいけない。
もっと自分の隣の友だちに目を向けるべきではないか。
その人たちに神様や真の父母様を知ってもらうにはどうしたらいいのか。
これまでは「教会目線」で友だちを見てきた。
しかしそれでは友だちを変化させることはできない。
それが、彼らの発言なのです。
そういう壁に二世たちがぶつかった。
あるいは、そういう壁があるということに気がついた。
つまりは、今二世学生会長たちがその願いとして提出したものは、
「私たち自身が今までのままの二世の姿ではなく、もっと外に目を向けた(教会目線ではない)二世になれば、神様や信仰にあまり関心のない人たちに変化を起こせる可能性がある。そうして自分たちも、自分たちによって変化を起こした人たちも、ともに教会目線ではない、周りの人たちに新たな変化を起こせる人になる。それが自分たちの新しい『二世らしい』二世の姿だ」
ということではないでしょうか。
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