愛が根っこになっての献金ですよ
教会で「献金、献金」というから、働いてでも献金しなくちゃならないですか?
家庭がバラバラになっても、献金が一番か?
献金は愛が根っこになっての献金ですよ。
自分の生活がモデルになりながら献金したがるの(が本性)だよ。
自分の家庭が葛藤しながら、献金が優先か?
金が優先ではないんだよ。
真の愛が地上の財産であり、霊界の財産です。
真の愛が永遠の財産です。
地上でも、真の愛は絶対です。
愛があるから、その家庭は物質的にも恵沢を受ける。
愛のない家庭は物質はあっても、みな事故の経費で流れてしまう。
葛藤する家庭の物質は価値がない。
侍る家庭の財産がとても価値がある。
愛が中心ですよ。
愛がなかったら、その家には物質も留まりたがらない。
その内に出ていきます。
お金もそんな家に左右されたくない。
愛があるのかどうか、お金にも分かるよ。
お金は何も知らずに所有されているのではないよ。
真の愛が内的愛。
お金が外的愛。
真の愛のあるところに所有されたいのが財産だよ。
真の愛を中心とした献金であって、自分の家庭は悲しみながら献金するのではないよ。
人間でも悲しいところからお金なんか貰いたくないでしょう。
人間もそうなのに....
(李耀翰先生講話 2012年5月)
★★★
昨日の記事の続きです。
「愛が根っこになっての献金ですよ」
これもまた、水準の高い話のようです。
理想論のようにも感じられます。
最近のインタビューで、李先生はこんなことも話しておられます。
あの方(文先生)としては、復帰摂理歴史をする、財力が絶対に必要だった、どうせ世の中の人々に支援を受けることができないことだと判断したので、自分で財政確保に邁進したものとみなす。
ここでは、日本が最大の功労者である。
日本の教会はその飛び抜けた献金力によって復帰摂理を助けた最大の功労者である、と評価されているのです。
確かに、それは間違いないでしょう。
しかし、その功労は、多くの会員にとって血の代価のようでもあります。
多くの血を流しながらも、さらに功労を立てたいと願う会員も少なくありません。
喜んで献金している会員がいないと決めつけることもできません。
しかし、その功労にはどれほどの内的な価値があったのか。
それを神様は喜んで受け取っておられたのかと問われれば、複雑な思いになります。
本心で受け止めれば、李先生のお話は間違っていません。
そのような家庭、物質が留まりたくなるような理想的な家庭を作りたい。
それは本心の願うところです。
問題は、その本心が願うところと現実とが大きく乖離している場合があるということでしょう。
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