聖職者は愛の奴隷であれ
―現代人が宗教をますます遠ざけている。宗教が問題なのか、信仰者個人が問題なのか。
李耀翰牧師:宗教が問題だと思う。聖職者達が、神霊と真理の人を作れずにいる。宗教儀式だけでは人を変化させられない。聖職者自ら神霊的でないので、人を作れないだろう。聖職者は信徒たちに感動を与えることができなければならない。
そのためには愛の奴隷であり、信徒に仕えなければならない。宗教がますます冷たくなって、一つの文化に転落してしまい残念だ。
―宗教の旗を再び高めることができる解決策はあるのか。
李耀翰牧師:神の存在を新たに刻印させなければならない。神は無条件に人間を助け協力する方ではない。人間が神を慕って懇願するとき協助する。慕う心がなければ、神も協助しない。
また、死後の世界(霊界)があるという事実を明確に知らせることができなければならない。統一原理には地上世界が「無形実体世界(死後の世界)の影」と説明されている。科学が発達すると霊界を撮るカメラが出てくるだろう。
次に、宗教が生き残るためには孝と霊性を育てる場所として生まれ変わらなければならない。文先生は、孝は子が親に返すのではなく、親が子どもに返すことで開始されなければならないと孝の道理を革命的に教えた。親が子どもに礼を尽くすことが容易ではないが、足りない部分は、子に理解を求めて家庭で孝の文化を再創造しなければならない。
(100歳を迎える統一教会牧師へのインタビュー(後編)」
★★★
昨日は3年前の講話DVDをたまたま机の引き出しから見つけて、李耀翰(イ・ヨハン)先生の講話の一部をご紹介したのですが、その時は先生はまだ95歳位かと思っていました。
ところが今日「familyforum」を開くと李先生のインタビュー記事が載っており、100歳になられたと書いてあります。
昨日の今日で、李先生の話題が続くので、その一致に不思議な感じがしました。
このインタビュー記事の中で、先生は、
「聖職者は愛の奴隷でなければならない」
と言っておられます。
また、
「孝の道理は、親が子どもに礼を尽くすことで開かねばならない」
とも言われます。
この2つは、結局同じことだと思われます。
「位置が上だと思っている人が下に降りて仕えなさい」
ということです。
信徒に仕えることのできない聖職者は神霊的ではなく、そのような聖職者は信徒を育てることができない。
宗教儀式では信仰者を育てることができないというのです。
同じことが親子関係でも言えます。
子どもに仕えることのできない親は神霊的ではなく、そのような親は子どもを霊的に育てられない、ということです。
聖職者は親のようでなければならない。
また、親は聖職者の立場である。
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