神の栄光はいつ現れるか
人事で最近異動してこられた教会長。
今日は実質的に最初の礼拝でした。
以前、このブログで本部推薦の説教を紹介したことがあります。
新しい教会長は、まさにその方です。
20分程度のコンパクトな説教で、筋立てがきっちりしている。
言いたいことが明確なので、短くても(あるいは、短いがゆえに)印象的に響いてきます。
今日は書写の奉納式があり、新しい自叙伝のみ言葉は、
「真の愛は愛を与え、与えたことさえ忘れる愛」。
説教の結論は、そこに向かいます。
話の初めは
「人間の価値とは何だろうか?」
というところから始まりました。
ネットで話題になった議論があります。
「この世には障害者という人たちがいます。この人たちはちゃんと働けず、健常者たちが収める税金で生きているのではないか。そんな人たちをどうして社会全体で養わないといけないのでしょうか?」
そういう質問の投稿に対して、多くの回答がネット上で寄せられました。
その中で、最も多くの人の共感を得た回答があります。
「何でも普通とは違ったものに価値がある」
「これがどうして一番評価の高い回答なのか分かりませんね」
と言った後、教会長はもう一つの実例を紹介します。
20歳の女性が妊娠して、父となるべき男性に結婚を求めました。
ところが、その男性は結婚を拒否。
女性は絶望の淵に落ちました。
「私はまだ20歳。一人でこの子の面倒を見ながら生涯を生きていくのか」
そこで、養子として引き取ってくれる人を探しました。
すると、米国のある医師が名乗りを上げたのです。
こんな奇特な、素晴らしい人がいるのか。
見も知らない、しかも外国の赤ん坊に手を差し出してくれるとは!
テレビ番組は、この話を肯定的に紹介したのです。
しかし、
「そんなはずはない」
と教会長。
医者が引き取るというのは、明らかに何らかの実験材料にする意図があるのではないか、というのです。
そこで、
「人間の価値とは何だろう? 障害者や父親のいない赤ん坊にどんな価値があるのか」
という設問を提示します。
イエス様はこの質問を受けた時、全く意外な回答を出されました。
「それは、神の栄光が現れるためである」
これはどういうことでしょうか。
障害者がどんな神の栄光を現せるというのでしょうか。
栄光は彼ら自身が現すものではありません。
どんな障害があったとしても、家族なら彼を見捨てることはできないでしょう。
彼がたとえ仕事をできなくても、家族が働いて等しく豊かに暮らせるようにします。
どんな人でも等しく豊かで幸福に暮らすことが出来る世界。
その世界が神の栄光です。
真の愛で、お互いがために生きる生活の中に、神の栄光が現れるのです。
教会長が今から17年前、韓国から日本に赴任してくるとき、文先生に呼ばれ、漢南洞にある公館に集まって、お話を伺ったことがあります。
「君たちの中に、牢屋に入った者がいるか?」
と文先生が尋ねられました。
誰も手を挙げる人はいません。
「先生は6度も牢屋に入ったが、決して罪があって入ったのではない。真の愛でために生きようとしたので、入ったのだ。君たちも、これから日本に行って、たとえ牢屋に入るような身の上になったとしても、徹底して真の愛でために生きなさい」
これが、文先生が愛する弟子たちを送り出す祝福の言葉でした。
★★★
身体的な不具合を持っている人(個)に神の栄光があるかどうかではない。
神の栄光は、そのような人をも含んだ我々が作る社会がどれくらい真の愛でために生き合えるかという「全体」の中に現れる。
説教を聞きながら、そんなふうに感じました。
文先生の生き様とそこから滲み出るみ言葉。
それが神様の栄光を現すようになるとすれば、それは文先生のそのような人生が種となって、我々全体がその種を実らせる真の愛の人生を生きる時に違いない。
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