良心の小学校
皆さんが原理的な生活を通して原理を実現することが、何よりも重要です。それでは、原理の実現とは何でしょうか。他の原理はすべてなくなり、創造原理だけが残ります。
人間には良心があるので、創造原理を中心として統一され得るのです。良心が喜ぶとおりに行えば、統一は自動的にできます。したがって、良心をつかみ、良心が喜ぶことだけをするように毎日教えれば、統一は自動的にできるのです。
(1969.1.1)
教会の早朝祈祷会で冒頭の文先生のみ言葉を訓読しながら「良心」について考えていると、なぜか自分の小学生時代が思い出されてきました。
頭に浮かんできたのは、主に小学校です。
玄関から入ると下駄箱。
1階の廊下から、一旦外の通路を歩いて行く体育館。
1階から2階へ上がっていく階段の広さ。
どれも、何気ない情景です。
そのようないろいろな情景が記憶に蘇ってくるのを見ながら、
「あの小学生の時代にも、私の中には良心があったんだなあ」
という思いが浮かんできました。
「あの頃はまだ、み言葉も知らず、神様にも出会っていなかったが、10年後のために良心はどのように私を準備してきてくれたんだろう?」
「あの頃から今に至るまで、私は良心が喜ぶ生活をどれくらいしてきただろう?」
そんなことを考えていると、
「人生というのは、出来事によって形成されるのではなく、その出来事をどのように感じるかという『感情』によって形成されるものだ」
という気がしてきました。
私が小学校のいろいろな情景を思い出す時、必ずその情景にまつわる「その時の私の感情」が付随しているのです。
その時の感情が必ずしも「喜び」に満たされていないことがあるので、その感情の記憶を洗い清めてほしい。
良心自体がそんなふうに願っているような気がします。
祈祷会が終わり、夜が明けかけた道を車で帰りながら、
「小学校に寄ってみよう」
という思いがふいに浮かんできました。
今の小学校は私が卒業して間もなく大きく改装され、体育館は新築されました。
しかも、数年前に廃校となって、今では小学校でさえなくなっています。
その元小学校が、今朝は私を呼んだのかと思います。
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